七月三十一日。

空には夏の風物詩といわれる入道雲さえ見当たらない快晴で、外国人に「これが日本晴れですよ」と説明するにこれ以上はないほど適切な感じだ。

そんな空から降り注ぐ日光をアスファルトが強烈に照り返し、少し先の坂の頂上に陽炎が揺らいで見える。

木もないのに何処にいるのやら、幾つにも重なりあい、まるで世界全体がかすかに震えているようにさえ感じる蝉の声。

何処に出しても恥ずかしくない、日本の夏の風景。そして僕はそんな風景の中、

「あづぁー……」

いつものようにぐだぐだと、干からびた大根みたいな感じでくそ暑い坂を上っていた。

 

 

 

七月三十一日、帰り道にて

 

 

 

「夏休みってさ。確か暑さにやられないようにある休みじゃなかったっけ? だったら何故補習なんてものがあるんでぃーすくぁー」

暑さのあまり、誰に言うでもなく一人ごちる僕。

独り言が空しい事はわかっているけれど、そんな独り言でも言わなければやっていられない。

そんな現状を打破するべく、つい数秒前に爽やかに風景描写とかしてみたわけが、やはりこの天気で爽やかになれるのは一部の特権所有者(流した汗が何故かキラキラして見える人たちなど)くらいなものだろう。

残念ながら、普通人である僕にとってこの暑さはストレスの対象以外の何物でもない。汗ばむ陽気――どころか汗だらだらでシャツはべたべたで不快指数は上がりっぱなし。

汗が不快ならタオルで拭けばいいじゃない、なんてどこぞの女王様みたく言われそうなものだが、もはやそのタオルすらべたべただ。僕の体の構成する水分の、一体何割がここで消費されているのだろう。

「干からびた大根ってのも、あながち間違っちゃないなー」

再び独り言。いっそ体の水分が全部抜けきってしまえば、この不快感からは解放されるだろうか。

とはいえ「本日午後一時頃、市内に住む高校生がミイラとなって発見されました」なんてニュースになるのは勘弁なので、その解決策は脳内のゴミ箱へ放り込んだ。

ミイラ阻止と熱中症対策の為に鞄からペットボトルの麦茶を取り出し、口に含む。

猛烈にぬるかった。逆に喉が渇いた気がした。

さすが黒の学生鞄。熱の吸収率が尋常じゃない。この鞄からも熱が放出されているような気がしたのも、僕の勘違いではなかったようだ。

ため息をつく気力もなく、僕はぐだぐだな体を動かして坂をのぼる。

向かう先には家がある。冷房や冷えた飲み物がある憩いの場。帰ったらクーラーのついた部屋でだらだらしよう。いや、その前にシャワーを浴びてさっぱりしたい。この汗だくな体で冷えた部屋にいたら風邪をひいてしまうし。

「うおーい、ぐっさーん。だるだるオーラが出まくってるよー」

そんな僕の思考は、タッタッタ、と短く規則正しい間隔の靴音と陽気な声に遮られた。

後ろを振り返る。案の定、こちらへ向かって走ってくる女子学生が一名。

「やあ。僕と同じクラスで僕と同じく夏休みの補習を受けている僕と同じ学生負け組なもっちんじゃないか」

「誰に対して説明してるのさ。あと自分で言ってて切なくない? それ」

「君が言った通りのだるだるオーラで皮肉しか口から出ないんだよ」

だるだるオーラが具体的にどんなものかはよくわからないものの、とりあえず今の僕をさすにはなかなか的確な表現ではないだろうか。

「ぐっさん元々、なかなかの皮肉屋さんだしね」

「捻(ひね)くれてるからね」

「捻(ね)じれてはいないから大丈夫」

「…………文字にしないとわからないネタだよ、それ」

しかし一瞬で分かった僕の頭脳に乾杯。こんなにぐだぐだでも、脳の回転はなかなかいいようだ。

僕の隣を歩きながら、もっちんは手でパタパタと自分を仰ぎながら呟く。

「しっかし、暑いねー。知ってる? 今日の気温、三十五度だってさ」

「やめて。具体的な気温言うのやめて。体感温度余計に上がる」

「じゃ、マイナス三度」

「それはそれで別の意味でくじけるからやめて」

これでマイナス三度なら、四十度の世界じゃ僕は溶解する。

「じゃあ温度の話はやめにして、別の話にしよう。なんで補習って午前中なんだろうね」

「よりによってそんな話すんのかいという突っ込みはさておき、それは思うね。帰る時間が一番暑い時間って、勉強と相乗効果で体力気力がものすごい削がれる」

「だよねー。わたしもう、汗べたべただよ。拭いても拭いても出てきてすごく気持ち悪い」

「……特権階級者もやっぱりそう思うんだ」

「特権階級?」

きょとんとした表情で僕を見るもっちんに、僕は適当に手を振った。

もっちんに自覚はないようだ。罪ですね。

「にしてもこれ、毎年絶対一回は言うんだけどさ。夏ってなんでこんな暑いんだろう」

「さあ。地理が赤点のもっちんさんにはわかりませぬ。でもわたしは、夏は生きてるって感じがして好きだよ」

「生きてるって感じ?」

「そうそう。躍動感というか、命の鼓動?」

「これまた大層な」

「まぁ今のは冗談として、そういう感じってない? 何て言うかなぁ。なんかこう、夏だー!! とか言って走りだしたくなる感覚」

「否定はしないけど、今は肯定できない」

「あはっ、ぐっさんらしい」

そう言って無邪気に笑う彼女を眺めながら、もっちんらしい表現だな、と僕は思った。

もっちんは純粋だ。天然とは違う、馬鹿とも違う、まっすぐさを持っている。

僕の知る限り、ここまでの純粋さを高校生になるまで持ち続けている人はいない。まるで子供のような純粋さを、彼女は損なうことなくこの年まで持ったままでいる。詩的に言うなら今日のこの青空のような感じだ。

その純粋さは、世界をそのまま受け入れている風にも思えた。楽しいことは楽しいままに、悲しいことは悲しいままに。思ったことも感じたことも。

だから、僕たちの言葉では表現しきれない感覚をそのまま言葉にしようとして、今みたいに失敗することがよくある。

でもそれは僕たちが別の言葉で無理矢理表現している感覚で、僕にはしっかりと伝わっている。

その純粋さは、僕みたいな捻くれ者からすればとても眩しい。僕がいつの間にかなくしたものを持っているようで、たまに憧れることもある。

だからだろうか。僕はもっちんが――――

「ぐっさん? おーい、ぐっさーん」

目の前で手を振られたので思考中止。

「うん? 何?」

「や、なんかぐっさん黙ったまま笑ったりしてたから。また脳内妄想?」

「またって、もっちん。その言い方は、まるで僕が常に妄想している変態のようじゃないか」

「変態かどうかはさておき、考え込むのは癖だよね」

「イエス」

即答できるくらには自覚があります。

「考えるのが悪いとは言わないけど、せめて誰かといる時はそっち優先してね。正直もっちんさん、微妙に寂しいわけで」

「善処します」

あくまで癖なので、その辺は融通がなかなか効かない。まさに今とか。

「よろしくね。で、何の話だっけ?」

「夏が叫びながら走り出したくなる季節だって話だったと思う。てゆうか、その話言ったの君なんだけどね」

「仕方ないじゃん。ぐっさんが脳内思考している間、もっちんさんは道に転がってる小石を蹴っ飛ばしたりしてたんだから」

「臨機応変すぎる」

僕はそんな長い間思考していたんだろうか。

「とりあえず今からでも走り出してみますか?」

「いいけど、僕はやらないよ」

「ノリの悪い話で」

「暑いからね」

「じゃあこの案は却下。一人で叫びながら走るのは、いくらなんでも奇行だし」

「賢明な判断だ」

二人でやっても十分奇行に分類されるとは思うけれど。

「それじゃ、わたしはこっちだから」

「え?」

もっちんの言葉に思わずそんな声を漏らして、僕は足を止めた。いつの間にかあの長い坂をのぼりきり、家まであと少しという距離だった。

楽しい時間というものはやっぱり早く過ぎ去るものらしい。

「もうそんなに歩いてた?」

「うん、いつの間にか。楽しい時間っていうのはあっという間に過ぎ去ってしまいますなー」

………………。

「ぐっさん? どうかした? なんか笑ってるけど、わたし何か変なこと言ったっけ?」

「……いや、別に。ちょっと思うところがあっただけ」

色々とね。

「ふーん。じゃ、また明日」

「うい、また明日」

特にいつもと変わらない感じでお互いに別れの言葉を交わし、僕たちはそれぞれの帰路へとついた。

相変わらず日差しは強い。けれど、心もち気だるさのなくなった体を動かして、僕は家へと足を向けた。

 

 

 

 

 

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