バレンタインSS「二月十四日、教室にて」
「谷口君。今日が何の日か知ってるかい?」
本日初めてこちらを向いた曽根原は、開口一番そんなことを言った。
「さあ。世間に浸透しているけれど僕と君には一切関係なさそうなお菓子業界の陰謀なら知ってるけど」
「おいおい谷口君。君ならいざ知らず、僕にまで無縁とはどういうことだい?」
読んでいた本から視線も上げずにそう言ってやると、心外だと言わんばかりの言葉が返ってきた。
その言葉に、僕は思い切り眉をひそめて曽根原を見た。
「は?」
「『は?』とは?」
「僕の知識が間違ってなければ、あれは普通の女子に関係あるイベントのはずだけど」
「何を言う、僕は誰が見ても普通でまともなありふれた女の子じゃないか」
「……ひとつ教えてやる。君が普通でまともなありふれた女の子なら、社会が成り立たない」
「大袈裟だねえ」
目の前の怠惰でおかしな捻くれ者は、やれやれと肩をすくめた。
ちなみに今の返答は、捻くれ者の僕にしては珍しく、心の底からの本音である。彼女が基準の世界なら、恐らく人類は自滅している。なんせ将来の夢がニートだ。
「まぁ君がどう思っているかはさて置き、実は僕はバレンタインデーという日がなかなか嫌いじゃなくてね。意中の相手にチョコレートを渡す。自分の好意を言葉ではなく形で伝える。仮に競争相手がいたとしても、わざわざ同じ日を選んで渡す。非効率だと思わないかい? ロマンチックなのかもしれないけれど、自分の好意を伝えるというその最大の目的に関しては遠回しな事は明白だ。人間が素直じゃない生物だと思わされるイベントだよ」
「新しい発想だな」
「知っているかい? 新しい発見をするのはいつも捻くれた視点だよ」
数秒前まで「普通でまともなありふれた女の子」を自称していたくせに、今度は「捻くれた視点」ときた。この思考が普通の女の子なら、こんなイベントが定着することもなかっただろう。
もっとも、その前に社会が崩壊するが。
僕は一度視線だけ周囲にやってから、次いで曽根原の顔を眺めた。
あまり認めたくない事実だが、曽根原は容姿だけは無駄にいい。まさしく無駄と表現するにふさわしいくらい。たぶん神様といわれる存在は、性格が残念な分せめて見てくれにステータスを割り振ってくれたのだろう。彼女がこんな捻くれた思考にも関わらず周囲にそれほど避けられていないのは、おそらく無意味に整った顔立ちのおかげなのだと僕は思っている。
そんな顔だけはいい曽根原が、バレンタインデーについて語っている。嫌いでないとまで言っている。
その状況に興味を持ったのだろう。周囲の席の視線(特に男子)が僕達に集中している事に、彼女が話している最中に気付いた。
さすがに注視こそしていないものの、意識がこちらに向いているのは隠し切れていない。中には頻繁にこちらを窺う挙動不審なクラスメイトもいる。
僕には理解しづらいが、曽根原がチョコレートを持ってきているか気になるのだろう。もしかしたら自分に――なんて思っているのかもしれない。ありえないと思うが、その場合はどうか彼女の性格を思いだして冷静になってもらいたい。
ついでに言えば、「早く聞き出せ」みたいな視線を無言で送ってくるのもやめて欲しい。
「どうしたんだい? 少しばかり不機嫌そうだけれど」
「別に。興味のない話題に付き合わされているからじゃないか」
「『興味のない』ねえ。その様子だと、本音とは思えないけどね?」
自分のせいで僕が晒されている状況に気付いているのかいないのか、ニヤニヤと癇に障る愉しそうな笑みを浮かべながら、曽根原は頬杖をついた。
気付いていようがいまいが、少なくとも僕の反応を見て曽根原が楽しんでいるのは間違いないいようだ。
目の前の人物と周囲に流されているようで気に食わないが、僕自身も曽根原が誰にチョコレートを渡そうとしているのか、ほんの微かでも気にならないかと言われれば嘘になる。
いや、別に知らなくても何の問題もないし、知った所で僕自身に何の益もないけれど、少なくとも今の状況からは解放される。それならまぁ、乗ってやってもいいのではないだろうか。
「じゃあ聞いてやる。バレンタインデーが嫌いじゃない女の子の曽根原は、誰かにチョコレートを渡すのか?」
僕は質問を繰り出した。周囲のクラスメイトが少しだけ身を乗り出す。
対して、投げ掛けられた問いに返ってきたのは、
「は?」
一文字だった。先程のやり取りとは正反対に、今度は曽根原が眉根を寄せる。
「いや、『は?』ってなんだ。関係なくないって事は、君はチョコレートを渡す予定があるんだろ?」
「何を言ってるんだ、谷口君は。自分でチョコレートを用意して他人に渡すなんて、そんな勿体なくて面倒な事を僕がすると思っているのかい?」
「……じゃあ今日という日が君に一体何の関係があるんだ」
というか今までの会話はなんだったんだ。
げんなりしながら聞いてやると、曽根原は何もわかっていないなとばかりにふふんと笑った。
「知らないのかい? 最近じゃあ、男子から女子にあげる逆チョコや友達同士で交換する友チョコなるものが流行っているんだよ。だから谷口君、君も早く寄こしたまえ」
こちらに手を差し出して、さも当然という表情で彼女は「さあ」と言った。
僕は彼女の脳天にチョップをお見舞いした。