010 伝えきれないよ

 

 

 

 

 

「うーん…………」

「もっちん?」

「あ。ぐっさん」

昼休みも半ばが過ぎた頃。図書室を訪れた僕は一人分厚い本をめくっているもっちんを発見した。

昼休みのような長い休憩時間に、彼女が一人でいるという事態はとても珍しい。それも図書室にだ。よっぽど読みたい本でもあったのだろうか。

そう思ってもっちんが読んでいた本に視線を向けると、やたらと分厚いそれは広辞苑だった。

「ちょっと調べもの」

僕の視線に気付いたのか、もっちんは広辞苑を閉じて僕に笑いかけた。

「それで、見つかったの?」

「うーん。あったというかなかったというか」

「煮え切らない答えだね」

「うん、自分でもそう思う。でもなんて言うか、あるにはあるんだけど、なんか違うというか」

そう言うともっちんは難しい表情をして腕を組んだ。

「ほら、もっちんさんってけっこう、言いたいことうまく言えない時あるでしょ?」

「あるね」

「やっぱりそういうのってちょっともどかしいから、こう、ピタっとはまる言葉がないかなって思って調べたんだけど、やっぱりなんか違うんだよね」

言って、彼女にしては珍しいため息をつく。例によってふわふわと形のはっきりしない物言いだったが、僕にはもっちんが何を言いたいのか察しがついた。

もっちんは純粋が故に、かなり感覚的だ。けれどその感覚にぴたりとはまる言葉に変換できなくて、上手く伝えきれなくて、それでこんな風に悩んでいる。

それは決して、もっちんの語彙力の問題ではない。語彙や語句ではなく、言葉そのものが有する欠点である。

例えば「本」という単語をあげると僕は文庫本が頭に浮かんだが、はたしてもっちんはそうだろうか。ハードカバーかもしれないし、もしかしたら絵本かもしれない。漫画という線もあり得る。またそのジャンルは? 厚さは? カバーのデザインは?

ここで僕が思い浮かべた本の詳細を事細かく説明しようと、同一のものをもっちんが思い浮かべることなど不可能だ。僕はもっちんでないし、もっちんは僕でないのだから、頭の中を覗き込みでもしない限り、言葉でそれを伝えきるのには限度がある。『百聞は一見に如かず』という言葉があるように、聞いて知るより見た方が明らかに理解が早いのだ。

まして「本」などという物質ならいざ知らず、もっちんが表現したいもっとあやふやで感覚的な気持ちを言葉で相手に伝えるのには、もっと無理がある。

言葉が足りない。いや、言葉では足りない。けれど人間は言葉以上のコミュニケーションツールを持たない。だからこそ、自分の気持ちをはっきりと形に出来なくて、もっちんは悩んでいる。

「あはは。ぐっさんぐらい、もっちんさんも色々知ってたらこんな風に悩まなくてもいいんだけどねー」

違う意味で力の抜けた笑みを浮かべるもっちん。どことなく、この問題は解決しないと悟っているような笑み。

僕はそんな彼女に、

「いや」

首を振ってみせた。

「僕は確かにそれなりに知識はあるかもしれない。でもそれだけだ。僕だって言いたい事をきちんと形にして言えない事はいくらでもある」

僕は珍しく話し相手と視線を合わせたまま言葉を続けた。そうする事が必要だと思ったから。

「それに、もっちんはそう思っていないかもしれないけど、みんなにはもっちんが言いたいことはきちんと伝わってるよ。捻くれ者の僕ですらそうなんだから」

言葉にはできない感覚。置き換えようとして、もっちんがいつも失敗するモノ。

しかし、言葉という形に当て嵌めないからこそ、加工されていない『それ』はそのままの形で僕達に届く。きっとそれは、もっちんのような純粋な人間だけができる芸当だろう。

そんなもっちんは、意外なものを見るような目で僕を見ていた。それからゆっくりと目を細め、口の端を少し持ち上げて、

 

「ありがと、ぐっさん」

 

嬉しさが溢れたような笑みを作って、そう言った。

「今の『ありがとう』には変な感じはしないの?」

表現できなくて悩んでいた彼女には意地の悪い質問だと思ったが、もっちんは変わらず笑顔だった。

「うん。今のはすごくピタってはまった感じ。たぶんこういうのは『ありがとう』以外じゃ伝えきれないよ。だから、ありがとう」

もう一度言って、無邪気な笑みを浮かべる。それは本当にくすぐったいくらい純粋な笑みで、捻くれた僕には眩しすぎる笑みだった。

似合わないセリフを言ってしまった事もあり、僕は気恥かしさに視線を逸らし、けれど口の端で笑みを作って、ほとんど口の中で呟くように答えた。

「どういたしまして」

 

 

 

 

 

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