020 蜃気楼

 

 

 

 

 

「純粋な人間は人間ではない」

問題提起でもするかのように、僕はぼそりと呟く。これが教室の中なら痛い奴だけれど、現在下校中の僕の目の見える範囲に人影はない。強いて言うなら目の前を三毛猫が走り去って行ったくらいで、つまる所、僕が変な事を呟いてみても特に何の問題も生じなかった。

曽根原の言う事にいちいち真面目に付き合う方がどうかしている。それはもう、僕の中では絶対といってもいい定義であって、まさしく真理だ。曽根原が何を言おうが彼女は僕以上の捻くれ者。それが正しいなんてまず有り得ないし、感化される可能性なんてまったくもって皆無。彼女と会話する事以上の時間の無駄遣いはなかなか存在しないと言えるだろう。なんせまるで意味がない事しか話さないのだから。

が、そう言った無駄や無意味さが重宝する時も人生にはある。例えば、学校から十数分かけて一人で帰宅する時なんかがそうだ。生憎、僕は見飽きる程歩いた通学路の風景を愛でる風情は持ち合わせていないので、一人でこの道を歩く時、いつも非常に退屈している。そんな時、思考する事が半ば趣味と化している身としては、彼女の無駄で無意味で荒唐無稽な話は格好の時間潰しになるのだ。

別に彼女との会話が僕の頭の片隅に引っ掛かっていたとか、そんな理由では断じてない。単純に、家に帰るまでどんな暇潰しができるだろうと考えた結果、なんとなく最初に思いついたのが彼女のそんな言葉だっただけだ。曽根原の無駄話が本当の意味で無意味になる前に、僕がこうやって時間潰しという価値を与え、意味付けしてやっている。いつも無益な話に付き合ってやっているのだから、その話を退屈凌ぎに使うくらいささいな対価だと思う。

さて。動機づけが出来た所で本題に入るとしよう。いや、別に動機とか関係ないか。これは単なる趣味を兼ねたただの暇潰しなのだから。

純粋な人間は人間でない。

曽根原の言う純粋さとは、疑問を抱かない事だった。他人の言う事を疑わず、社会の常識を疑わず、世界の摂理を疑わない。

確かに、そんな人間がいたらそれは人間ではないだろう。言われた事を鵜呑みにする機械となんら変わらない。まさしく人間味というやつに欠ける生物で、人間として欠陥だろう。

しかし、果たして純粋さが疑問を抱かない事とイコールになるのだろうか。確かに純粋な人間は人の言う事をあまり疑わないけれど、彼らは別に考えていない訳ではない。機械と違ってきちんと思考する能力を持っており、考えた上で信じているのだから。

だから僕は思う。純粋な人間は疑う事が出来ないのではなく、信じる事が出来る人間なのだ。

これははっきり言って意味としてはほとんど変わらない事だけれど、他人に接する態度としては大きく違う。

その言葉が正しいと最初から信じるか、疑ってかかるか。その人物を信用し、その言葉を信頼するか。

彼らが行っているのはそういう事だ。曽根原の言う最も「人間らしい」捻くれ者達が、当たり前のようにその人物を疑問し、その言葉に猜疑するように。

だからこそ、人間らしい捻くれ者は純粋な人間に対して騙された事を馬鹿だと笑い、信じてしまう事を愚かだと蔑み、そして信じられる事に憧れる。

出来ない者は出来る者を羨む。出来る事が出来ない者に欠落しているほど、その感情は強くなる。信じる事が出来ない捻くれ者は、だからこそどうしようもなく信じる事に憧れてしまう。

ならば、純粋な人間に憧れる捻くれ者は、果たして人間と言えるのだろうか。最も「人間らしい」はずの者達が「人間らしくない」者達を羨んでしまうのは、それが間違っていないと理解しているからではないか。

そこから導き出される結論はこうだ。

「純粋な人間は人間でない、とは限らない」

問題に対する解答を口にしてみる。思考し始めた時と変わらず、僕の目に見える範囲には誰もいなかった。解答は誰にも受け止められないまま、空気に溶けるように消え失せる。

まぁ、僕の言葉が誰の耳に届こうが意味はない。そもそもこの思考だってただの暇潰しであって、行っている僕自身も何か意味を見出そうとしているわけではないのだし。

だいた、曽根原の言う事が万人に受け入れられるはずがない。何故なら彼女は僕以上の捻くれ者、物事をとにかく屈折してしか見る事が出来ない。

結局、あいつの主張なんて蜃気楼みたいなものなのだから。

 

 

 

 

 

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