023 忘れないで
「おい曽根原。ちょっといいか」
「なんだい、谷口君」
授業終了直後、曽根原が席を離れる前に声を掛けた。回転椅子にでも座っているような無駄に滑らかな動作で、曽根原は後ろの席に座る僕の方へと向き直る。
僕は中指に溜めていた力を解き放った。
その一撃に曽根原はクリーンヒットをもらったボクサーの如く机に突っ伏す。
……いつも思うけれど、人類で最初にデコピンを実行した人間はあえて骨密度の高い額にしたのだろう。僕個人がそれほどやる機会はないからかもしれないけれど、地味に中指が痛い。
もっとも、やられた方はもっと痛いようだが。
「……僕は大人だから、怒る前に先に理由を聞こう。僕が君に何かしたかい?」
「さあな。胸に手を当てて考えろ」
額をさすりながら半眼で睨んでくる(珍しい表情だ)曽根原にそれだけ言ってやる。
「嫌だよ。僕の胸囲へのあてつけかい?」
「…………その返答は予測してなかった」
「悪意なく人のウィークポイントを突いてくるなんて、わりと最低な人間だね。君のその言動で一体何人の女の子が泣いてきたのやら」
曽根原はやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。ひどい言われようだ。
「その言い方だとまるで僕が女子から人気のようだけど」
「……すまない、それは気のせいだ。うん、僕も悪かったよ。表現がよくなかったみたいだ」
今度はかわいそうなものを見るような目で見られる。
肯定されるとは思ってなかったけれど、もっとひどい言われようだった。どうやらデコピンと答え方がかなり彼女の気に障ったらしい。
何故そう言えるかというと、曽根原の顔にとても嫌な感じの笑みが浮かんでいるからだ。
「これでようやく三割くらいはやり返せたかな?」
今ので三割とか、一体どこが大人なのやら。
「まぁ何をしたかはよくわからないけれど、君の事だ。おおかた望月さん絡みだろう?」
「ノーコメント」
「それは遠回しな肯定だよ、君」
そう言って曽根原は肩を震わせてくっくと笑った。
「そうか。今度から君への嫌がらせは全部望月さんへと持って行けばいいわけか」
「勝手にやればいいだろ。ところで、デコピンより上位にデコペンなるものがあるらしいけど」
「おっと、この辺でやめておこうか。他人をからかうのは楽しいけれど、それはあくまで自分に害のない範囲の事だしね」
相変わらずにやにやと嫌な笑みを浮かべながら、曽根原は僕の机に両肘をついて手を組んだ。その手の上に顎を乗せ、上目づかいにこちらを見てくる。
「でもね、谷口君。これは逆に自分に害のない範囲であれば、いくらでもなんでもできるという事も意味しているんだよ。メリットがデメリットを越えるなら、それはメリットだ。ハイリスクハイリターンを踏みきれない人間は、つまりリスクがリターンより大きいと感じているだけの話なんだよ」
「それを僕に話して、お前は一体どうしたい。遠回しな脅迫か?」
「まさか。これは忠告だよ、谷口君」
身を起こし、椅子の背もたれに身を預け、人差し指で僕の顔を示しながら続ける。
「君がどんな基準を設けているか知らないけれど、君の思うデメリットは相手のデメリットであるとは限らない。逆も同じくあり得るという事を。君の親切心が、本当にただのお節介にもなりかねない、というわけだ」
「そうか。で、それは一体誰の何の話だ?」
「さあ。まぁ、誰の何の話だろうと、谷口君は僕の話なんて素直に受け取らないだろう? だからこれだけ最後に言っておくよ」
そう言うと、曽根原は立ち上がり僕の耳元に顔を近付けた。
「君のやりたい事はただの自己満足だ。忘れないで、道化君」
囁くように、誑かすように、それだけ言って、彼女は教室から出ていった。
それとほとんど同じタイミングで授業開始のチャイムが鳴る。どうやら次の時間はサボるらしい。
「忘れないで、ね」
残された僕は小さく呟く。
曽根原が口にするだけで、その言葉はまるで呪いのように聞こえた。