2-5 彼女の選択

 

 

 

 

 

裏門へと走りながら、優里は自分の身に起こった変化を感じていた。

食堂の裏口から裏門までは直線距離で三〇〇メートルもない。しかし、学校内には障害物がいくつもあるし、校舎を大きく迂回しなければならないため、どれだけ飛ばしても五分はかかる道のりである。

だが、それは普通の人間の場合。今の優里は違った。

地面を蹴る足がアスファルトを踏み砕く。

ただ足で走っているだけなのに、車にでも乗っているかのようなスピードで景色が過ぎ去っていく。

そんなスピードを出しているのにも関わらず、ちっともそれを辛いと思わない体。

どれもこれも、人の身では出せない力だった。人から外れてしまった魔王の優里だからこそ出せる力だった。

校舎の角を曲がる。曲がる瞬間に常人なら体が潰れてしまいそうな慣性が働くも、魔王の筋力はそれを強引にねじ伏せ、地面を抉って優里は角を曲がりきった。

裏門が視界に入った。

ここまでの所要時間は一分も経っていない。本来五分は掛かる道のりである。それほどまでに、優里の身体能力は異常に上昇していた。

「いた……!」

身体能力と同じく強化された視覚が、異形の生物を捉える。

それは、例えるならサイとカブトムシを掛け合わせたような生物だった。見るからに重量のありそうな巨体は三メートル以上あり、黒くて光沢のある甲殻のようなもので覆われている。四本の脚はサイのように太く、かつ刺のような突起がいくつもついていた。ほとんど唯一と言ってもいいサイとカブトムシの共通点である角は、太く、そして長い。体長の半分ほどに見えるその角はまるで、頭の先に丸太でも付けているようでえある。

既存の生物学を根底から否定するような姿をしているモンスターは、緩慢な動きで頭を振っていた。まるで何かを探しているかのような動きである。

優里はそこまで観察すると、一旦校舎の壁に身を隠した。モンスターがまだ優里に気づいていなことを確認し、周囲を見渡して他に誰もいないことを確かめる。

どうやら先ほどジオキルが呟いていた通り、まだ誰もモンスターに気付いていないようだ。

ならば、騒ぎになる前にモンスターをどうにか出来れば、パニックは防げる。

しかし。

(ど、どうやったらええんやろ……)

頭を抱えて、優里は校舎の壁に突っ伏した。

モンスターが現れると感じて駆け付けたはいいが、モンスターを倒す手段がない。

確かに今の優里は魔王の身体能力を持ち、昨日の流がそうであったようにある程度なら立ち向かえるかもしれない。

しかし、決定打がなかった。昨日の優里は『天災を呼ぶ魔刃(ストームブリンガー)』を持っていたが、今は刃物どころか武器になりそうなものなど一つとして身に着けていない、完全な丸腰。

誰も気付いていない内に、あの頑丈そうなモンスターを倒さなければならない。しかし、今の優里にはその手段がなかった。長期戦になるようであればパニックは避けられず、わざわざ全速で出向いてきた意味がない。

「お困りですか?」

あーもーどないしょー、と混乱のあまり頭を壁に打ち付ける優里の背後から、声が掛かった。

振り返れば、そこにはジオキルがいた。ただし、先程までと格好は異なり、初めて見た時と同じ、額に第三の目を持つ彼本来の姿に戻っている。

「おお、さすが使い魔、ちょうどええとこに。あの武器出してくれへん? 魔王専用のアレ」

「『天災を呼ぶ魔刃』ですか? 貴女が出せというのであればお出ししますが、何に使われるんですか?」

「は? 決まってるやん。あのモンスターをぶっ倒すねん。みんなが気付く前にどうにかせな、パニックになるやろ」

「いえ、ですから」

ジオキルは優里の言いたい事が心底理解できない、という様子で、

 

「そのモンスターを倒して、それが一体何になるんですか?」

 

そんな事を言った。

一瞬面喰ってから、優里は眉をひそめて問い返す。

「何にって、そりゃあみんな守れるやん。何を言うとんねんアンタは」

「確かに守れますね。『目の前にいる誰か』に限っては」

どこか突き放すような声でジオキルは続ける。

「ですが、その目の前の誰かは、これからいくらでも現れます。貴女が魔王でいる限り、モンスターは貴女の目の届くぎりぎりの範囲で現れ続けるんですから。そして、その誰かは常に貴女の必要な人間であるとは限りません。見知らぬ他人であるかもしれないし、憎い相手かもしれません」

ジオキルはちらりとモンスターを見て、

「あのモンスターに限れば、貴女が必要としている人間を襲う可能性は高いでしょう。しかし、それ以外の人間を、貴女は守る事が出来ますか? 何の見返りもくれない、むしろ貴女が魔王だと知って敵意を向けるかもしれないような人間達を」

言われ、優里は言葉に詰まった。

ジオキルの言っている事は決して間違いでない。優里は人類皆兄弟、というような博愛精神は持ち合わせていない。嫌いな人間はもちろんいるし、自分を嫌っている人間と積極的にかかわりたいとも思わない。

そんな人間を、体を張って守る。大切な人達と同じように守る。何時でも何人でも何度でも、守り続ける。そんなことを、当たり前にできるような人間では、ない。

「本音を言えば、自分は、貴女を不要な危険に晒したくありません。他人を守る。そんな事は、この世界の抑止力――給料という形で見返りを貰っている警察や軍隊にやらせればいいだけの話。わざわざあなたが身を削ってやる必要はないんです」

諭すような口調で、ジオキルは更に言う。

「知っていますか? 『みんな』という言葉は、全人類を指す言葉ではないんですよ。貴女の身近にいて、貴女が大切に想う人達だけを指すんです。決して、貴女が知らない誰かの事を意味する言葉ではありません。そして、その『みんな』でないものこそが、歴代の魔王達をもっとも忌み嫌った人達なんです」

それは考えるまでもなく当たり前の事だった。

魔王とは直接的に一切関わりのなかった人たち。魔王がどのような人物で、どんな事情があって魔王となったか、知らない人たち。

理由も知らず日常を奪われるだけの彼らにとって、魔王なんてものは憎悪の対象以外の何者でもないだろう。

「先日、自分はこう言ったはずです。魔王はモンスターを管理する為の存在であり、魔王がいなければ世界は滅ぶ、と」

ジオキルの言葉はまだ続く。優里を止める為に、続く。

「魔王は不死身ですが、無敵ではないんです。殴られると痛いし、斬られると血も出ます。いえ、そんな事以上に、例え死ぬほどの怪我を負おうが決して死ねないという事は、死ねる事よりもはるかに辛い。まだ力に慣れていない貴女が、そんな可能性のある場になんて、自分は出来る限り貴女に出てほしくありません」

死ねない苦しみ。

はっきり言って未知の感覚だが、それがとてつもなく苦しい事であることだけはわかった。

「魔王がするべきなのはモンスターの管理であって、駆除ではありません。確かに管理者である以上は暴走したモンスターの駆除も仕事の一つですが、あの程度のモンスターならば、それこそ警察で事足ります。だから、貴女がここであのモンスターに立ち向かう必要なんて、ないんですよ」

ジオキルの言葉は、優里にははっきりと理解できた。

あの程度のモンスター。そう、確かに、その通りなのだ。

優里は、あのモンスターに脅威を感じていない。昨日、モンスターと遭遇した時は違った。あの時、優里は自分でもはっきりとわかるくらい、モンスターに対して恐怖を抱いていた。

だが今は違う。先ほどまで彼女は、何の迷いも疑いもなく、さっさとモンスターを倒してこの事態に収拾をつけようとしていたくらいなのだ。

一日にして変わったその認識は、言うなれば戦力の違い。

相手がナイフを持っていようが、こちらが拳銃を構えていれば恐れる理由はない。それと同じ。

相手がナイフであり、自分が拳銃であると。そのくらいの戦力差があると、優里は自然と確信していた。

しかし。だからと言って、それが優里の絶対で確実な勝利を意味するわけではない。

例え拳銃を持っていようがその扱い方をきちんと理解していなければ、ナイフに後れを取ることだってあるのだから。その可能性が低くとも、ゼロでない以上危険はある。それならば、戦力は多少劣ろうともその使い方を把握している警察に任せるべきだ。まして、優里に戦わなければならない理由がないのであれば。

ジオキルが言いたいことは、つまりそういう事である。

優里はジオキルの双眸を見た。自分をまっすぐに見つめる金色の瞳は、真剣さしか映し出していない。

本気で自分の主人を案じている目だった。心なんて読めるわけではないが、それだけははっきりと伝わった。

それを理解しつつ、優里はモンスターへと視線を向ける。

「…………なぁ、ジオキル。今から警察呼んで、どれくらいで来ると思う?」

「そうですね。昨日の今日ですから五分…………いや、装備を整えるのならば一〇分といったところでしょうか」

「その間、あのモンスターが大人しくしてると思うか?」

「おそらくそれはないでしょうが、間違っても先日を越える被害はないと思います。あのモンスターは昨日のとは違い、突進ぐらいしか攻撃方法がなさそうなので」

そうか、と優里は小さく呟く。

警察が来るまで一〇分。モンスターはその間、野放し。

「その間に狙われるのは、ウチとは何の関係もない、魔王を誰よりも恐れる他人、な」

「…………優里さん?」

優里の不穏な空気を感じ取ったように、ジオキルがわずかに眉根を寄せる。

そんな彼の表情は無視して、優里は淡々とこう告げる。

「あのモンスターを倒して何になるか、やったっけ。ウチの答えを教えたるわ、ジオキル」

言うやいなや、優里はジオキルに背を向けて校舎の角から飛び出した。

そして次の瞬間、

 

モンスターが反応する前に全速で駆け出し、速度を落とさず飛び上がり、その頭頂部に思い切りかかとを叩きつけた。

ズドンッ!! と。壮絶な威力を秘めた一撃に、モンスターが半ば埋まるような形で顎から地面に激突した。

 

「なっ…………」

背後でジオキルが絶句したのがわかった。自分の話を聞いて、まさかここまで話を無視した行動に出るとは思わなかったのだろう。

しかし、優里にとって、ジオキルのそんな反応はこの際どうでもいい。自分の使い魔に対し、モンスターの頭を踏んだまま人差し指を突き付けた。

「ジオキル! アンタがウチをあんま戦わせたないってことはよーくわかった。こんなザコ一体倒すんに、ウチなんかが出張る必要も理由もないってことも、何となくわかったわ」

いまだ校舎の角に立つジオキルに、優里は言葉を続ける。

そこには、もはや迷いも戸惑いも一切なかった。

「見知らぬ他人? 憎い相手? 確かにそうかもしれんな。誰もかれも好きなんて博愛精神、ウチは持ち合わせてへん。嫌いな奴もおれば鬱陶しい奴もおる。そんな奴らをいっつも全員助けられるかなんて、きっと無理やと思う」

だが、優里はそんな事情の全てをひっくるめて言う。

「けどな、ジオキル。そんなもんはこの際どうでもええねん。もう一回言うたるわ。そんなもん、どうでもええねん! 目の前で誰かが襲われそうになってて、ウチにそれを助ける力があって、それを使わん理由がどこにある? どう考えても誰かが不幸になる事は目に見えてんのに、それをどうにかせん理由が、どこにある? あるわけないやろが! ウチがそいつを嫌ってても、そいつがウチを嫌ってても、そんなつまらんこと、今はどうでもええやろうが!!」

自己満足でも自己偽善でも構わない。

迷惑と思われようが関係ない。

何故なら、それは優里がしたいと思ったことだから。誰に強制されたわけでもなく、誰にそう願われたわけでもなく、優里自身がそう望んで、そうしたいと思ったことだから。

ならば優里は迷わない。自分が選択したことを全力でする。優里がやるべきことは、ただそれだけだ。

「ウチは昨日言ったやんな。ウチは目の前の事しか考えられへん人間やって。それは魔王になったからって、変わらん。ウチは、麻桜優里や。ウチは、今ウチに出来る事があるんなら、いつだってそれを全力でやってやる」

そして、優里は宣言する。

 

「ウチは、目の前の『誰か』を守り続ける。『誰か』が不幸になるっていうんなら駆けつけてやる。ウチがやる必要はない? そんなもん知るか。ウチが出来るんなら、こんなウチでも出来るんなら、ウチがやればええだけの話やろうが。ウチがモンスターと戦う理由があるっていうんなら、それだけあれば十分や!」

 

直後、優里を押し退けるようにモンスターが頭を振るった。モンスターから意識を外していた事に後悔しつつ、なんとか足を踏ん張って堪えようとする。

――が、いかに魔王といえど、しょせん優里は女子高生。体重差はカバーできず、そのまま吹き飛ばされる。

「うわっ!」

浮遊感が体を支配する。次に来るであろう衝撃に耐えようと身を固くしたが――あったのは緩やかに自分の体を止める、衝撃とも形容できないような「揺れ」だった。

驚いて後ろを振り返ると、ジオキルが優里の背後に立っていた。吹き飛ばされた優里を彼が抱きとめ、衝撃を殺してくれたのだろう。あの一瞬でそこまでやってのけるとは、恐るべき反応と技術である。

彼は優里を地面に立たせながら呆れたようにため息を吐いた。

「まったく。倒してもいない敵の目の前で油断するなんて余裕ですね。優里さんは戦闘に関して素人なんですから、気を抜く暇なんてありませんよ?」

「う、うっさいな。うっかりしとっただけやもん」

「そういう判断も素人丸出しです。そんな事で、よく『みんなを守る』なんて言えますね」

素人丸出しと指摘され、うぐ、と優里は小さく呻く。普段よりだいぶ毒舌な使い魔の言葉はもっともだ。

「しかしまぁ、自分も貴女を止めても無駄とわかりました。ですから、ここからは使い魔として、しっかりサポートさせていただきます」

言いながら、ジオキルは宙で人差し指を動かす。細い指先が動く軌跡に淡い光が走り、複雑な模様を描き出した。魔法だ、と優里は思う。

瞬く間に完成した直径十五センチほどの円形図の魔法陣。そのちょうど中心に、ジオキルが右手を突っ込んだ。どこか別の場所とでも繋がっているのか、その魔法陣の中に入ってしまった手首から先は、まるで飲み込まれたように消えている。

魔法陣の向こう側でジオキルが何かを掴み、引き抜く。どう考えても直径十五センチ程度の場所から出せるようなものではないはずだが、そんな理屈は無視して引きずり出されたものに、優里は見覚えがあった。

優里の身長すら越える、鈍色の大鎌。不幸を吸って力を成す、魔王専用武器。

『天災を呼ぶ魔刃』。

「貴女の敵を屠る武器です。存分にお使いください」

恭しく武器を差し出す使い魔。

しかし優里は首を振った。

「違うで、ジオキル」

ニヤリと笑いかけ、続ける。

「こいつは、ウチがみんなを守る為の力や」

言って、優里は『天災を呼ぶ魔刃』をしっかりと掴む。目の前の脅威から誰かを守る為に、その力を掴む。

手に馴染む感触を確かめながら軽く一振りするのと同じタイミングで、モンスターが優里を捕捉。その尋常でない大きさの角を優里に向かって突き付けた。鉤爪の生えた太い足が、スパイクのように地面を噛む。

突進してくる。そう予想した優里はモンスターが動く前に、身を低くして地面を蹴った。蹴られた地面が爆ぜ割れ、そのエネルギーを推進力に換え、モンスターよりも速くその懐に潜り込む。

地面を滑るように低い姿勢から接近した優里は、即座に大鎌を跳ね上げた。体重のかかったモンスターの右足に刃が触れる。わずかな手応えとともに足を切断。刃の軌道上の顎までも半ばまで切り裂いた。

自重を支えられなくなったモンスターの体が傾く。それでも残りの足を使って、優里へと捨て身の突貫。馬鹿げたサイズのその角が優里に向かって薙ぎ払われる。

(みんなを)

自身に迫る角を真紅の瞳で睨みながら、優里は思う。

(『みんな』を助けるつもりなら)

このまま何もしなければ、巨木のようなこの角は優里の脇腹をえぐり、彼女の体を吹き飛ばすだろう。優里とこのモンスターとでは覆しようのない体重差がある。先程のようにただ頭を振るっただけではない、防御を無視した捨て身の一撃ならば、ダメージはあんなものではないはずだ。

しかし。優里は脅えることも怯むこともなく、跳ね上げた『天災を呼ぶ魔刃』の柄をきつく握る。

自分の進むべき道を決めた優里は、一瞬たりとも躊躇わない。

(こんなザコ一匹、余裕で倒さな無理やんな、麻桜優里!!)

いっそ叩きつけるような勢いで、大鎌を全力で振り下ろした。

人間と対比することすら間違いな、魔王の強大すぎる膂力。瞬間的にその全てを注ぎ込んだ武器は、もはや大鎌としての役割は果たしていなかった。

大質量の鉄球でも叩きつけたように、膨大な圧力を以てモンスターの頭上で炸裂する。

ドゴンッ!!! という、先程の踵落としとは比べ物にならないほどの轟音と衝撃。甲殻で守られていたモンスターの頭は、その巨木の如く太い角と共に踏み潰された空き缶のようにひしゃげていた。

ピクリとも動かなくなったモンスターは、霧散するように消えていく。

「ジオキル」

消えゆくモンスターを眺めながら、はっきりとした口調で優里は言う。

「ウチは魔王やけど、やってやる。誰に嫌われても憎まれても、やり通してやる。そう決めたから」

それは宣言だった。

麻桜優里が、やり通す事。

赤い髪と紅い瞳を持つ魔王は、自身の使い魔に向かってこう告げる。

「だから、ウチのせいで、モンスターがこの街に集まるって言うんなら」

言って、ジオキルの方へと振り返った。

優里がこの街から消えれば、この日常を捨てれば、それだけで優里のいた世界は守られる。モンスターという脅威から救われる。

けれど、優里はそれを選べなかった。未練がましい選択だという事はわかっている。自分がどうしようもなく自己中心的な考えでこの選択をした事も理解している。

しかし、選んでしまった。ならば、優里はその代償を払わなければならない。

自分が手放せなかった世界を守る、その為に。その身を削る覚悟を以て。

決意を固めた揺るぎない紅い瞳が、ジオキルをまっすぐに見据える。

 

「ウチが、『みんな』を守る正義の味方になってやる」

 

この世界に対して言うように、彼女はそう告げた。

 

 

 

 

 

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