3-1 魔王様の為の魔法講座
ベッドに仰向けに寝転んだまま、ぼんやりと天井を眺め続ける。
すでに日は落ち、灯りを点けていない部屋の中は、家の敷地外から街灯がかすかに届くだけでほとんど真っ暗だった。自分の視線の先にはいつもならこの部屋を明るく照らしている電灯があるはずだが、今は明度の低さに視覚がその存在を認識できない。
普段の彼女なら――誰だってそうだろうが――こんな時間になる前に灯りを点けている。しかし今の彼女には、部屋が暗くなったという事すら気づいていなかった。
今日、彼女は学校を休んだ。
その理由として、モンスターに襲われた事に精神的なショックを受け、体調を崩したからだと学校には伝えている。それは確かに事実で、実際、彼女は昨晩帰宅してからしばらく寝込んだ。元々身体はあまり強くない方だ。あんな恐怖を体験すれば、体調を崩してしまうのは我ながら納得できる。
けれど、それ以上に。体調を崩してしまったという事実以上に、今日学校に行かなかった――行けなかった理由が彼女にはあった。
眩い光の中、目の前でモンスターを倒した人物。
関西弁で、髪が長くて、大きな鎌を携えた、紅い少女。
自分の命をも脅かしたモンスター以上に強烈に、鮮烈に、脳裏に焼き付いた後ろ姿。
「ゆうちゃん、だったのかなぁ……」
あの時自分を助けてくれたのが誰だったのか、姫宮奏はただそれだけを一日中考えていた。
***
麻桜家、リビング。
多少のいざこざはあったものの、迅速な対応で誰にも悟られることなくモンスターを撃破した不幸なる女子高生にして赤髪紅眼の今代魔王麻桜優里は、食卓について夕飯であるチャーハンをレンゲでよそいながら、テレビの方を向いていた。
とは言っても、別にテレビ番組を見ているわけではない。その方向に会議室にありそうなホワイトボードがあり、その脇にジオキルがいるからである。
銀の長髪に金色の双眸、額に三つめの赤い目をもつ魔王の使い魔ジオキルは、いつもの防御力の低そうなファンタジックな服装の上に紺のエプロンという珍妙な格好で、出所不明なホワイトボードの上にマジックで何か書き綴っている。
ボードの一番左上に大きく書かれた文字は、「第一回
優里さんの為の魔法講座」。
「それでは、これより第一回優里さんの為の魔法講座を始めようと思います」
口上とともに深々と頭を下げるジオキルに、形から入るタイプやなぁと優里は思う。
「魔法を扱ったフィクション作品は数多くありますが、自分達の生きるこの世界において、魔法とは生成です」
言いながらジオキルがマジックで指したのは、「科学と魔法の違い」というホワイトボード上の文字。
「科学と魔法の一番の違いは、変換するか生成するかという点です。科学は、酸素を燃焼させて火を起こしたり、大気中の水素を結合させて水分子を作るなど、言わば『AをBへと変換する作業』です。しかし魔法はというと、魔力から炎を生成し、魔力から水を生成する『魔力でBを生み出す作業』なんです。何故科学に『変換』、魔法に『生成』という言葉を使わせていただいたか、それは科学によって生み出されるものは限定されるからです。酸素だけで水を作ることはできないし、水のみで火を起こすことはできない。一方で魔力は、それ一つの用途で火も水も風も電気も、更には時間の流れや空間といった概念的なものに至るまで、我々が想像できる範囲全てに対応し、生み出すことができるからです」
「なんか……聞いてる限り魔力ってめっちゃすごない?」
「すごいですよ。理論上は万能物質です。ですが、世界は――特にこの科学が発達した表世界は、魔力の持つ可能性を十全に引き出せるわけではありません」
キュキューと、ジオキルはホワイトボードにマジックで文字を書きつける。「魔力の在処と出力方法」と書いてあった。
「魔力は初めからこの世界にあるものならば何にでも備わっています。動物や植物、大地や空気にも。裏世界では『魔力は神からの贈り物』という信仰まであるくらい、天然のもの全てに魔力は備わっています。しかし、それだけ多くの資源がありながら、我々にはそれを思い通りに形にする手段がない。できても火を起こしたり水を作ったり、ごくごく単純な事しかできないのです」
「……時間止めんのってどう考えても単純ちゃうやろ」
「案外そうでもないですよ。何故なら我々は時の流れを感じている。一秒がどれほどで、一分がどれほどで、一時間がどれほどか知っている。時間は戻らない、止まらない、一方向にしか進まないことも知っているし、何より我々は時の流れの中で生きている。無意識的に絶え間なく感じている事象だからこそ、法則を導き出し、魔力で操作することができるのです。先日使用した『沈黙する刻(サイレントクロック)』も、指定範囲内の空間を本来とは時の流れが違う疑似空間と置換することによって、優里さんと自分以外、まるで時間が止まったかと思うくらい時間の長さを引き延ばす魔法なんです」
「常識がひっくり返された気分やけど、とりあえず魔法すごいな」
「魔法使いは、そうでない者とは世界の見方が異なると言われているくらいですからね。しかし」
逆説を口にし、ジオキルは「出力方法」の文字にアンダーラインを引く。
「先程も言ったように、我々は魔力の持つ可能性を十全には引き出せません。何故なら魔法は、魔力を利用するには恐ろしく燃費の悪い方法だからです」
「燃費が悪い?」
「ええ。魔法を使うには手順があります。まず使う魔力を必要な分だけ集め、次に何を生成するのかを口述し、最後に口述通りに魔力で魔法を生み出す。順に『収束』、『変換』、『発動』と呼ばれる三つのステップです」
ホワイトボードに三つの単語が書き並べられる。
「しかしこの作業、例えるならバケツの中の水を手ですくって別のバケツに移し替えるようなものです。バケツの中の水を手ですくってみると、どうやってもいくらかは零れます。手の中の水は、移動中に漏れ出し、更に体積を減らします。別のバケツに移す時には、すくった時の大部分はなくなってわずかな水が残るだけ。『収束』した魔力を一〇とすれば、『発動』時の魔力は一がやっと。これは生身ではどうやっても免れない、魔法が抱える欠陥です」
「生身ではってことは、なんか使えば解決できんの?」
「解決、とまでは言いませんが、実力以上の威力を発揮する方法ならあります。それが優里さんの持つ『天災を呼ぶ魔刃』のような、クラフトと呼ばれる道具です」
クラフト、と書き出すジオキル。
「クラフトは魔力の収束率を助けるので、その分より大きな魔法を発動することが出来ます。『魔力の変換率が上がる』わけではなく、単に実力以上の魔力を消費して大きな魔法を発動する手助けをしている、という事なんですがね。しかしクラフトには代償を払うことで更なる特殊能力を発動することができます」
「ウチの鎌の場合は不幸を吸って身体能力上がるんやっけ?」
「弱い魔力の無効化、魔力防壁の貫通。あと魔王の魔力を代償に治癒力強化などもありますよ。これだけ強力な能力を有するのは、ひとえに『魔王専用』という制約があるからですね」
「地味に反則やもんなぁ」
ゲームで表現するとステータス上昇、バリア、防御無効、体力回復である。プレイヤー側からすれば製作者を殴りたくなるほどのチートっぷりだ。
「ちなみに勇者のみが扱える『エクスカリバー』もクラフトです」
「あー、英雄山の台座に刺さっとるアレか。アレ、ホンマに抜けへんよな。友達五人ぐらいでやってみた事あるけど、びくともせえへんもん」
「もしかして英雄山に行った事があるんですか?」
「当たり前やん。今の日本でいっちゃん有名な観光名所やで?」
英雄山とは、勇者のみが扱える聖剣エクスカリバーが安置されている山である。
一五年前、先代魔王が勇者に倒され、その世代で不要となった聖剣は当時の勇者によって現在の英雄山――何の変哲もない標高一〇〇メートル程度の山の登頂――に封印された。
以来、その山は英雄山と改名され、「聖剣の眠る山」というブランドを持った観光地として目覚ましい発展を遂げている。優里自身小学校の時に三度、中学校で二度、学校の遠足でその地に訪れていた。
ちなみに次期勇者の選別の為、台座に突き刺さっているだけのエクスカリバーには特に何の防犯処置もされておらず、観光客でも触れる事が出来る。勇者以外には重機を使っても引き抜けない性質上、防犯の意味がないからだった。
故に「英雄山に登ればエクスカリバーにチャレンジする」はこの山におけるお決まりのようなものなのだ。
「勇者はなんであんなとこに伝説の剣なんてたいそーなもん置いてったんやろなぁ。アンタ、なんか知らんの?」
「すみません。知らないというか、わかるはずがない、というのが実情です」
「どういうこと?」
苦笑するジオキルに優里は訊ねる。痛いところを突かれたような、なんだか見た事のない表情だった。
「勇者が勝利した場面で、自分が生きていた事がないもので」
「…………あ」
申し訳なさそうにそう言った顔を見て、先程のジオキルの表情がようやく理解できた。
勇者は暴走した魔王を止める為の存在。全てのモンスターを従える魔王の、唯一の天敵である。
そしてジオキルは魔王の使い魔。これまでの振舞いから考えると、側近のような立場だったのだろう。
魔王と勇者が戦う。その構図をゲームに当てはめると、勇者は必ずと言っていい位、ラスボスとのバトルの前にラスボスの一番の部下とのバトルを乗り越えなければならない。
魔王が負けるという事は、その前に側近であるジオキルも勇者に倒されている事も意味している。ジオキルは自分の主を守る為、幾度となく勇者と戦い、そしてその数だけ倒されてきたのだ。
「なんか、ごめん……」
「いえいえ。足掻いた所で仕方のない事なんですよ。暴走した魔王は勇者に倒される。これは自然の摂理のようなものなんですから。それに自分、一応は不滅の存在なので。それはさておき」
少々強引にジオキルは話題を打ち切り、手にしたマジックに蓋をした。
「現在、優里さんは魔王として覚醒したばかり。魔法は全く扱えません。この先、貴女が貴女の生き方を貫きたいのであれば、昼のような戦い方ではいずれ無理が出てくるでしょう」
モンスターに襲われる「誰か」を助け続ける。
魔王として覚醒しても日常を捨てられなかった優里が支払う代償。
「うん」
「その為に。何より自分としては優里さんの危険を減らす為に。これから魔法を覚えていただきます。もちろん、貴女がこの世界で生きて行く為に必要な分の全てを」
はたしてそれはどれほどの量なのか、想像できず優里は少し不安になる。
しかし、だからといって引き下がれるわけがない。
自分で選んだ道なのだ。ならばやり抜く努力を怠ってはいけない。
「まぁ、明日も授業がありますし、本格的な事は次の休日からですけどね。ですが、例え授業中であったとしてもできる訓練方法はあります」
ぴっ、と。ジオキルは右手の人差し指を立てた。優里は自然とその指に注目する。
「……ん?」
優里はなんとなく眉を潜めた。優里が見ているのはジオキルの人差し指。ただそれだけなはずなのに、どこか違和感がある。
視覚的にも何の変化もないはずだ。それなのに、何かが決定的に違う。あえて例えるなら気配だろうか。ジオキルの人差し指の先に、何か濃密な気配が存在しているのだ。
「自分が何をしているかわかりますか?」
「いや全然。でも、なんかちゃうねん。なんかがおかしいって事はわかんねんけど……」
「そうです。実は今、この人差し指の先端には魔力が『収束』しています」
そう言った瞬間、違和感が消失した。そして再び奇妙な気配が戻ってくる。
「優里さんが感じている違和感は、魔力を感知しているからです。魔力はあくまでエネルギーなので、それが『変換』されなければ形を持ちません。一昨日までの優里さんなら魔力を知覚する感覚器官がなかったのでわからなかったでしょうが、魔王として覚醒し、魔力を感知できる体質になったので、経験上初めての感覚として、不自然と感じるのでしょう」
ジオキルは人差し指を戻すと、同時に気配も消え去った。
なるほど、確かにこんな感覚は今までになかった。今思うと、昼間にモンスターの存在に気付けたのも、今のように魔力を感知できたからなのかもしれない。
「繰り返しますが、魔力はエネルギーでしかありませんからそれ単体では何物にも干渉できません。そして、魔法を使用する時、まず行う事は魔力の『収束』」
「つまり特に道具もいらん上に誰にも被害がない『収束』を練習しろと」
「そういう事です」
言いながらジオキルはホワイトボードに手をかざした。その手に魔力らしき感覚を覚えたと同時に、ホワイトボードは一瞬光って消え去った。どこから持ち出してきたのか不思議だったが、どうやらああやって魔法で持ち込んだものだったらしい。
魔法。実際に見たり体験したりした今でも、はっきり言ってそんなものを自分が使えるようになるなんていまいち想像できない。
しかし、これから優里が生きる為には絶対に必要になってくる技術なのはよくわかる。
だから優里は、始める前にまずこう訊ねた。
「で、コツは?」
「最初はそういう先入観なしにやってみませんか?」
苦笑交じりにそう答えた使い魔に、優里はむうと口をとがらせたのだった。