〈八〉鮫島邸へいらっしゃい

 

 

 

 

 

「えっと、樹君、大丈夫ですか? 顔色よくないみたいですけど」

「だ、大丈夫だ。家に着けば治るから、休まず一刻も早く行こう」

右側を歩く春菜の指摘通り脂汗をだらだら流しながら、俺はできる限りのスピードで早歩きをしていた。

俺がこんなにもヤバそうな状況なのは、ひとえに左手にぶら下げた鉄下駄のせいだ。

重いんだよ、これ。しかも雨が降っているせいで右手は傘を持たないといけないし、左手は左手で鉄下駄が紙製の袋に入れられているから、雨に濡れないよう肘を九〇度以上曲げて持たなくてはいけない。これが想像以上に肘に負担をかけている。はっきり言って、いつつるかわからん。

「本当に大丈夫ですか? こっちの荷物もちますよ?」

左側を歩く揚羽が紙袋に手を伸ばそうとするが、

「いや、大丈夫だ。気持ちだけ受け取っとく」

俺はそれを断った。いかに腕がもげそうな勢いで疲労しているからといって、さすがに女の子にこんなくそ重いものを持たせるわけにはいかない。

揚羽は若干不満そうな顔をしたが、「そうですか」と言って納得してくれた。

「ところで、樹君の家まで、あとどれくらいあるんですか?」

「このペースならもうすぐそこ……ぐおうっ!?」

ようやく視認できる距離まで近づいたので、俺は荷物でふさがっている両手の代わりに顎で自分の家を示そうとした瞬間、その拍子に鉄下駄が入った荷物が揺れ一瞬だがさらなる負荷が俺の左腕を襲った。

や、やばい……。腕の痙攣の仕方が色々とありえない。

「あの家ですか?」

「そっ、そう、だ」

「あの、樹君? 顔が半笑いみたいになってますけど」

心配そうに聞いてくる春菜だが、立ち止まらないでください。早く荷物を降ろさないと深刻な状況になります。冗談抜きで。

「き、気持悪くても今は、が、我慢してくれ。荷物さえ、お、置けば治るから」

「そ、そうですか」

「じゃあ急ぎましょう!」

そう言って揚羽が駆け出した。もちろん行先は俺の……家じゃない!?

「違う! 揚羽、俺んちはそんな先にないぞ!!」

「えー? なんですかー?」

気が付けば俺んちから二〇メートルは離れた所まで行ってしまった揚羽が、ようやく振り返った。しかし雨のせいで音がよく聞こえていないらしい。耳に手を当ててこっちの声を拾おうとしているのは見てわかるが、聞こえないならこっちへ来てくれよ。

くそっ、まさかゴールを目の前にこんな試練があるとは。もはや時間との勝負。腕がつるのが早いか、揚羽を連れ戻して荷物を置けるのが早いか。

「春菜! 先に玄関の所で待っててくれ! 俺はさっさと揚羽を呼んでくるから!」

プルプルと震える腕に力を入れるあまり妙に力のこもった声で春菜にそう伝えてから、俺は揚羽の方へと出来る限り急いだ。

 

 

***

 

 

な、なんとか………………なんとかつらずに帰ってきたぞ、この野郎……。

「お、お疲れ様です」

何故そうなってるかはわからないはずだが、とりあえず俺が疲れきっている事を察した春菜が、ハンカチを目の前に差し出してくれた。

その行為は非常にありがたいけど、ここはもう俺の家。タオルなら十分あるし、わざわざ人のハンカチを汚すまでもない。そんなわけで、俺はやんわりと断っておいた。

「ここが樹くんちですかー。なんか、すっごく大きい家ですね」

「まぁ、所々ボロいけどな」

右手で左腕を揉み解しながら、俺はもの珍しげに家を眺める揚羽に答えた。

ウチは、母家とは別に道場がある。なんでも、戦後に潰れた空手道場を親父が引き取ったという話だ。母屋と道場。戦前に建てられたものだから古いが、代わりに広さは結構ある。

「ところで、お前らはいつまで玄関に立ってるつもりだ? 別に上がっていいぞ。お茶ぐらい出すし」

「あ、ありがとうございます。おじゃましまーす」

「お、お邪魔します」

さて、招いたはいいが、どう案内しようか。親父は地元でやっている小学生の空手の大会の審判に呼ばれているし、母さんはパート。爺さんは確か、戦友と飲み会がどうたら言っていたはず。つまり、俺以外に部屋まで案内できる人がいない、というわけだ。

まぁ先に部屋に案内してもいいんだが、この荷物を片づけてしまいたいし、お茶とかも持っていくとなると、どうしても部屋を空ける時間が長くなってしまう。初めてきた家で長時間放置されるのも嫌だろうし。どうするかな。

 

ガララッ

 

ん?

「おはよう、イッキ兄…………と、誰?」

突然した玄関の開く音に振り返ると、今しがた俺達が入ってきた玄関を開け、虎が怪訝そうな顔で立っていた。

何というか……ナイスタイミング。

「虎、悪いけどこの二人を俺の部屋まで連れて行ってくれないか? 俺は荷物の片付けとかしなきゃならないから」

「それはいいけど、この人達、誰?」

「友達。近くで会ったら遊びに来た」

「は、初めまして。樹君と同じクラスの猫乃春菜といいます」

「隣りのクラスの白井揚羽です!」

春菜が少し緊張気味に、揚羽は何故か敬礼しながら、二人とも簡単に自己紹介。

辻斬り事件の翌日に話しかけられた時から思ってたけど、春菜ってやっぱり人見知りするんだろうか。あと、今日の揚羽は何故そんなに敬礼するんだろう。揚羽の中で流行ってるのか?

「えっと、俺はイッキ兄と同じ中学で、ここの門下生の長尾景虎(ながお かげとら)っていいます」

何気に上杉謙信と同じ名前だったりするのがこいつ。まぁ俺は虎と呼んでいるが。

「門下生、ですか?」

「言ってなかったか? ウチの親父、空手の道場を開いてるんだ」

その為に道場があるこの家を買ったと、本人が言っていた。

で、虎は、その道場に通う門下生の中でも一番の古株。そしてご近所。一つしか年が変わらないということもあり、弟みたいな感じだ。

「どうりで樹君が強いわけですね……」

「ということは、長尾くんも滝に打たれて修行とかしてるんですか!?」

「……揚羽。フィクションじゃないんだ、門下生にそこまで無茶なことはさせないぞ。かなり変な言い方だけど、人が来ないとできない客商売なんだから」

俺はやらされたけど。あれ、本当に寒い。精神力が強くなるどころか、早く帰りたいとしか思えなくなるし。

「まぁそれは置いといて、それじゃあ虎、頼む。ついでにタオルも渡してやってくれ。揚羽と春菜も、部屋で適当にくつろいでいてくれるといいぞ」

「オッケー。それじゃあ二人とも、ついてきて」

虎が俺の部屋のある二階へと階段を登り始めたのを確認してから、俺は家の奥へと足を向けた。

重いから、この鉄下駄は玄関に放置しといてやろう。

 

 

***

 

 

「じゃんけん、ポン!」

「あっち向いてホイ!」

「じゃんけん、ポン!」

「あっち向いてホイ!」

「じゃんけん、ポン! あいこで、ポン!」

……なんか異様に盛り上がってるな、俺の部屋。自分の部屋の前で人数分のお茶が乗ったお盆を片手に、そんな感想を抱いた。

声から察するに、恐らく虎と揚羽だろう。春菜がこのテンションだったらさすがに意外すぎる。

何故あっち向いてホイなのか。そして初対面の人間があっち向いてホイをやるものなのか。突っ込みたい事はいろいろあるがそれは部屋の中に入ってからするとして、今俺が考えるべきなのは、この状況で俺が入ってもいいものかという事。入ってきた俺に気を奪われてどちらかの勝利が決定してしまうのは何となく忍びない。なんせこの盛り上がり方だ。負けた方は確実に悔しがる。

……いや、別に気負う必要は全くないな。何故俺はあっち向いてホイの勝敗をここまで気にしてるんだろう。意味がわからん。お茶が冷める前にさっさと入ろう。

軽くノックをした後、俺は部屋の戸を開けた。

「「「あ」」」

入った瞬間、三人の声がはもる。

俺から見て右で膝立ちしている揚羽が、左(俺の方)を向いていた。

俺から見て左で同じく膝立ちしている虎が、顔と右手の人差し指を右(俺の方)へ向けていた。

揚羽と虎の間の位置に正座している春菜が、二人の間からこっちを見ていた。

いや、何故そんなに固まってるんですかお前たち。お茶持って入ったきただけなんだが。つーか、

「勝負、決まってるぞ」

「「「え?」」」

同時に虎の右手に三人の視線が集まる。

「むぅ。樹くん、タイミング悪いですよー」

「ま、おかげで俺は勝てたけど」

「えっと、今ので一二対一三になって、虎君の勝ちですね」

頬を膨らませて不貞腐れている揚羽。まさかさっきの想像が現実になるとは。すまん

それにしても、俺が荷物を片付けてお茶を淹れてくるまでのわずかな期間で、あっち向いてホイを二五戦もしてるなんて想像すらしなかったぞ。しかも接戦。

「まぁ、勝負がついたんなら丁度いい。お茶でも飲んでくれ」

とりあえずこれ以上不機嫌になられる前に俺はお盆を三人の前に置いた。まず虎が、続いて揚羽が、間を開けて最後に春菜が、それぞれコップを手に取る。

「長尾くん。今のはなしになりませんか?」

「いやいや。勝負は時の運っていうし、それは認めらんないすね」

何やら議論している虎と揚羽。こいつら仲良くなるの早いな。虎は人懐っこいし揚羽も驚くほど人見知りしないから、まぁ当然と言えば当然か。

その点、

「春菜、どうした?」

春菜は少し所在なさげだ。きょろきょろしたり、挙動不審というか落ち着かないというか。

「あ、え、なっ、何もないですよ?」

「いや、それだけ噛んでて何もないってことはないと思うんだが」

「う……」

むしろ際立ってしまったぞ。

「話しにくかったら聞かないけど」

「い、いえ、そういうわけじゃなくて、その…………」

もじもじと、両手で包むように持ったコップに視線を落とす。

「あの、お、男の人の、へ、部屋って、その……初めて、来たので」

「…………あー」

なるほど、慣れない場所で緊張していると。うーん、あんまり考えた事のない問題だから、どう対処すればいいのかよくわからん。そもそも俺だって、逆に女子の部屋に行った経験なんて朱音の部屋にくらいしかないしな。あいつの部屋は殺風景で漫画とかで見るほど『女の子の部屋』って感じじゃなかったから何も感じなかったし。

ちなみに姉貴のもあるが、身の危険を感じて速攻で逃げた。

「わたしも初めてです!」

「……うん、そうか」

馴れ馴れしいというか図々しいというか。とりあえず、春菜に揚羽を見習えというのは酷だろう。

「まぁ、自分の部屋だと思ってくつろいでくれたらいいぞ。眠かったらそこのベッドで寝ててもいいし」

「なななっ、何を言ってるんですか!!」

何故か顔を真っ赤にして叫ばれてしまった。よくわからんが失敗。たぶん、春菜の良心か何かに触れたんだろう。

「イッキ兄、今のはセクハラだよ」

「え? ど、何処が?」

まさか、今の発言の中にそんなものに引っ掛かるようなものがあったのか? 全然気付かなかった。

「えっと、すまん春菜。なんかセクハラしたらしい」

「い、いえ、気にしてませんので」

そういう割には視線が斜め下を向いているので、何となく罪悪感。とりあえず本人が大丈夫と言ったから法的には許されるとは思うけど。

……うん、何故俺は『法的』なんて言葉が出るほど話を大きくしてるんだろうな。

「それにしてもイッキ兄、いつの間にこんな節操なしになったの? 中学まで部屋に上がった女の人って朱音さんぐらいだったのに、まさか高校デビュー?」

「そんなデビューがあってたまるか。あと、特に機会がなかったからそうだっただけだ」

「しかもこんな可愛い人を二人って。俺、イッキ兄がどんどん女――いだだだだ!!」

「確かにこいつらは女子で可愛いかもしれんが、俺が友達を部屋に上げるのがそんなに珍しいか?」

あんまりにもうるさいので、虎の頭を右手でつかんでアイアンクローをかましてやった。

まったく、人聞きの悪い。今まではたまたまほぼ男だけだったのであって、それが女になっただけでここまで言われるとは。交友関係が広がったんなら、別に問題ないじゃないか。

「悪いな二人とも……………………どうした?」

何故か揚羽が頬を染めてボケっとし、春菜が真っ赤になって俯いていた。

えーと……何なの、この反応?

「どうした? まさか、また俺なんか変な事言ったか?」

今の発言の中になんか引っ掛かりそうな言葉があっただろうか。

「おーい。お前ら」

あんまりにも反応がないので顔の前で手を振ってやると、突然揚羽が気付いたように身を震わせ、

「そっ、そんなことないですって!! わわわ、わたし、別にかわいくなんかないですよ!?」

突然そんな事を言い出した。

「あの、とりあえず大丈夫か? 春菜、お前も――」

「すっ、すいません長居しすぎました!!」

頭から煙でも出しそうな勢いで赤い顔の春菜はがばっと立ち上がると、荷物を持って部屋の戸へ一直線。何故か揚羽もすぐその後を追う。

「「お邪魔しました!!」」

二人は見事にはもると、そのまま行ってしまった。ドタドタという音がどんどん遠ざかっていくあたり、ダッシュで玄関を出て行ったらしい。

「えー…………本当に、何?」

「さぁ。照れたんじゃないの」

妙に呆れたような表情でそんな事を言う虎。

照れさせるような事、俺言ったっけ?

 

 

 

 

 

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