〈九〉雨の日、鉄下駄、白帽子

 

 

 

 

 

カラン、コロン、カラン、コロン

 

梅雨入り間もない六月の早朝、やはり今日も小雨が降っていた。

そしてそんな小雨の中、俺は、

 

カラン、コロン、カラン、コロン

 

鉄下駄で日課のランニングをしている。

…………そう。五月の終わりにデパートで多大な精神疲労を伴いながら購入した、あの鉄下駄だ。

言うまでもない事だが、とてつもなく恥ずかしい。この鉄下駄ランニングが始まって一週間ほどたったが、そりゃあもう恥ずかしい。

なんせすれ違う人みんなの視線が俺の足元に集中するわけなんだから。変な物を見るような目で見られるし、犬には吠えられるし。ご近所で「朝六時頃にジャージに鉄下駄でランニングをしている茶髪の高校生っぽいのがいる」という噂が広まってしまっているくらいだ。

幸いまだ俺とは特定されていないものの、正直特徴がありすぎて時間の問題。そんな人間俺しかいないし。こんな時代錯誤の人間がご近所に複数いてたまるか。

ちなみにそこまで嫌がりながらも俺が鉄下駄を履いている理由は、親父と爺さんに異議を申し立てるも「金が勿体ない」という至極単純なセリフによって却下されたからだ。

ちくしょう、そう思うならそもそもこんなもん買わせるなよな……。まぁかく言う俺も、あの労力が無駄になるのは悲しすぎたので、その言葉納得してしまったわけだが。

 

カラン、コロン、カラン、コロン

 

しかし今の時期だと路面は滑りやすいし、これに限らず下駄ってかなり危険だ。そもそも走るのに向いてない構造だし足びしょ濡れだし、ろくな事がない。

 

カラン、コロン、カラン、コロン

 

こんな時間だ。近所迷惑になってないだろうな、この音。

 

カラン、コロン、カラン、コロン

 

「おーい」

ん?

「ちょっと、待ってー」

なんか後ろの方で声が聞こえるんだが……。これは俺に対してか?

「聞こえて、ないのー? そこの、茶髪で、ジャージで、鉄下駄のー」

確定した。俺以外いない。

ちらりと後ろを振り返ってみると、二〇メートルくらいだろうか、大きく右手を振って追いかけてくる白のキャップでジャージが一人。距離がある上に小雨降るこの天気。知り合いだとしても特定までできなかった。

…………いや待て。もし知り合いだったら、俺すごく恥ずかしくないか? だって鉄下駄だぞ? ご近所で噂の鉄下駄野郎だぞ? それが俺だと特定されたら、また変な風に周りから誤解されてしまう。

後ろの白帽子は俺に追いつくためか、スピードを上げてその距離をどんどん詰めてくる。

まずい、振り切らねば。そうと決まれば急げ!

 

ガンゴンガンガンッ

 

走りにくっ! でも追いつかれるわけにはいかん!!

「ちょ、なんで、逃げてんの!」

後ろから焦ったような声が聞こえてきたが、振り向くような余裕はない。

俺は荒い金属音を響かせながら、全力で走った。

 

 

***

 

 

「げ、限界だ……」

走り続けること一〇分。家を通り過ぎてなお走り続けた俺は、バテバテの状態で公園に転がりこんだ。

幸い、公園には誰もいなかった。俺は全力疾走と鉄下駄の重量と慣れない鉄下駄でのダッシュに疲れ切った足を引きずりながら、なんとかベンチに腰を降ろす。

だー……。あの白帽子、俺が鉄下駄という点を考慮してもかなり速い奴だった。最初のアドバンテージと地の利を生かして何度も撒こうと試みたが、撒いたと思った瞬間俺を補足して追いすがってきたし。諦めたのか、公園に着く頃にはいなくなってたけど。

それにしても、やっぱり鉄下駄で全力疾走は無理があった。下駄の鼻緒で親指と人差し指の間は擦り切れるし、そもそも鼻緒自体がもうボロボロだ。まぁ履けなくなったら俺としてはありがたい話だけど。

…………ん?

「げ」

何となく人の気配を感じ、鉄下駄から公園の入口に視線をやって、思わずそんな声が漏れた。

何故ならそこには、何とか撒いたと思っていた白帽子がいたからだ。

「や……やっと…………追い、ついた……」

向こうも向こうで疲労困憊らしい白帽子は、膝に手をついて息を整えている。

その隙に自分の状態を確認。体力は数分だが休めたことで少し回復している。鉄下駄は傷まみれになったがまだ走れないこともない。

よし、今なら逃げれるんじゃないか? そう思った俺はこっそりベンチから腰を浮かして――

「なんで逃げんの、樹」

ちくしょう呼び止められた。

って…………何故俺の名前を?

改めて白帽子を観察してみるが、息を整える為に顔を伏せているのでよくわからなかった。

とりあえず声的には女っぽいが、あまり聞き覚えはない。誰?

「逃げても追いつく自信あったのになぁ。ちょっとショック」

「えー、すいません。正直に聞きます。誰ですか?」

我ながら格好のつかない俺の問いに、その人は動きを止めた。数秒して「あー」と呟く。

「これじゃあ確かにわかんないかも」

そう言うと、帽子を取って顔を上げた。ついでに膝に手をついていた状態から身体を起こしたので、目線も本来の高さに戻る。

俺とあまりかわらない身長。なかなか美人な顔立ちで、というか最近見た顔で……えっと…………

「…………天藤さん!」

「あたり。だけど今の間はひどくない?」

「すいません……」

「あはは、冗談冗談。ちょっと雑談したくらいで、そうそう人の顔なんて覚えらんないもんね」

ムッとした表情から一転、悪戯っぽい笑みを浮かべる天藤さん。

「その理屈でいくと天藤さんはよく俺のことわかりましたね」

「まーね。ま、あたしの場合、樹とは事情が違うから」

「事情?」

「あれから何回か、この時間帯に樹に遭遇してるもん」

この時間帯に遭遇? ということは、ランニングの途中ですれ違うかなにかしてるってことか。俺の記憶にはないが、こういう格好をしているという事は恐らく、天藤さんもランニングを日課としているんだろう。あれだけ追いすがられた事だし、部活か何かやってるんだろうか?

………………待て。ちょっと待て。

「ということは天藤さん。もしかして俺が鉄下駄で走ってる姿も見てるってことじゃ――」

「うん。なんか変な人いるなーって思ってたら、樹だった――ってどうしたの?」

鉄下駄目撃証言に思わず地面に突っ伏した俺に、天藤さんが寄ってくる。

マジか……。隠す前から学校関係者にバレてるじゃないかよ…………。

「おーい。気分でも悪いのー?」

「天藤さん、お願いがあります」

「何?」

「俺が鉄下駄でランニングをしているという事は秘密にしてください」

あからさまに気落ちした様子でそうお願いする姿に天藤さんは理解できないらしく、眉を寄せて首を傾げた。

「これ以上、悪目立ちしたくないんですよ」

「悪目立ちって…………ああ、なるほど。確かにまた変な噂は立ちそうだもんねえ」

納得した様子の天藤さんだったが、ここで何故かニヤリと笑った。

何かイタズラ的な物を思いついた時にやるタイプの笑顔だった。龍次とかがよくやるアレ。

「いいけど、条件が一つ?」

条件?

「……何ですか」

「別に難しいことじゃないよ」

楽しそうにそう言うが、正直さっきの笑みを思い返すとろくでもない事のような気がする。しかし背に腹は代えられない。

ちっ、知りあって間もない、というかまだ二回しか会ってないから、こういう時何を要求されるかちっとも予測できないな。今は天藤さんが思いやりのある人だと信じよう。信じてます。

「あたしの事は、七星って呼んで。ついでに敬語もなしで」

………………………………。

………………………………。

………………………………は?

「何故?」

嫌な予感は外れたが、それ以上に理解できない条件だ。

「んー、きみと友達付き合いってヤツをしてみたくなったから、かな? ほら、中学違うし部活も違うし接点なんかなんにもなかったのに、こうして知り合ったわけじゃん。学校って案外そういう事珍しいでしょ? だから、そういうのも面白いかなーって思って」

「わかるようなわからないような」

「もっと単純に言っちゃえば、あたしが樹にキョーミ持ったからってことよ」

まず自分を、次いで俺の方に人差し指を向ける。

「はあ。でも別に俺、そんな面白い奴でもないですよ」

「それを判断するのはあたし。それに、鮫島樹くんは毎朝鉄下駄でご近所を走りまわっている変人だって言いふらされるリスクを考えたら、デメリットなんかないんだからいいじゃん」

う……。表現が微妙に気になるが、確かに天藤さんと友達になること(?)に何の問題もない以上、この条件はむしろ喜ばしい事だ。

ただ、年上を呼び捨てで、しかも敬語なしかぁ。

「やりにくいですね。って違った、やりにくいな」

「大学じゃ同じ学年なら年が違ってもタメ語らしいし、そういう事だと思って気にしない」

「…………まぁ、そう言われればそうだけど」

違和感が凄まじい。なんかすごくいけない事をしてる気がするのは、俺の気が小さいせいだろうか。

「ま、徐々にね。あたしも樹って呼ぶし。てゆうか呼んでるし」

そう言うと天藤さん……じゃない、七星は、腕を組んで笑みを浮かべた。

まだ二度目に邂逅(俺的にはそう)にも関わらず、これだけ接近してくる人も珍しい。いきなり下の名前だし。

「つーか、俺にそんな興味持つような事ありま……あるか?」

「それは当たり前じゃん。暴走族潰して、暴力事件を解決して、その上鉄下駄でランニングするような人、興味持たない方が少ないんじゃない?」

口に出して言われると、確かに猛烈に変な奴だ、俺。

「そのくせ案外優しいし」

「はい?」

「んーん、ただの個人的に、前評判とのギャップに驚いたって話よ。それじゃ、今日はこの辺で帰るね。さすがに汗が冷えてきたし」

腕時計に視線を落とし、帽子をかぶり直して七星は言った。

俺も自分の時計を確認して…………うおっ、これでは朝稽古が終わらん!

「おう、それじゃ」

「また学校でね」

軽く手を振りあって、俺は急いで家に向かう。

親父達には遅いとどやされるんだろうなぁ。まぁ、別にそれくらいは構わないか。それなりに面白い話だったし。

 

カラン、コロン、カラン、コロン

 

……しかし締まらないな、この音は。

 

 

 

 

 

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