〈二〉一学期最後の日
『えー、夏休みは、えー、長い休みですから、浮かれてしまうのも仕方ありませんが、えー』
「いい加減終われよ……」
体育館の中は蒸し蒸しとした暑苦しさと気だるさで満たされていた。
現在、一学期を締めくくる終業式の真っ最中。例によって壇上に立つ校長(仮)の長いお話で、ただでさえこのくそ暑い中でじっとしているのが辛いというのに、俺達の不快指数は上がるばかり。
校長(仮)自身、汗でワイシャツは濡れてるし額も光ってる。正直何があの人をあそこまで喋らせるのか全然理解できん。
全校生徒がなんとか入る体育館で、その全員が心底面倒くさそうな顔で自分を見ているという自覚がないんだろうか。話が短い方が楽だし俺達も助かるし校長(仮)のカツラの中も蒸れないし、いい事づくし何だけどなぁ。
「まったくだ。周りが女子ばかりならいざ知らず、なんで俺の前後はむさい男ばっかりなんだよ。こんなんじゃ、夏の風物詩である透ける夏用セーラー服とか、汗が滴るうなじを間近で堪能できないじゃないか」
背後では気持ちの悪いことを言ってる奴もいるし。
「耳元でセクハラ発言すんな」
「いや正常ですけど? Standard 男子ですけど? 嘘だと思うなら揚羽ちゃん見てみろよ」
促され、なんとなく俺達より少し前で座っている揚羽の方に視線をやる。
自分の前の女子と喋りながら、手を自分の方にあおいでなけなしの風を送り、制服の首元を摘まんでバサバサやっていた。
……………………ふっ。
ゴンッ
「樹!?」
「すまなかった龍次……。俺はお前の事を馬鹿にする資格なんてない、最低な奴だった」
「いや自分で自分を殴るほど後悔する必要はないし、そんなんで最低とか言い出したらタカとか存在から消滅だぞ?」
珍しく俺を慰めるように龍次が肩に手を置いてくる。
何て言うか、揚羽を見れない。龍次に言われて改めて見たら、なんかもう刺激が強すぎた。
今までそんな風に考えた事なかったから、セーラー服の意外な側面を見てしまった気がする。いやむしろ世間一般としてはそういう風に見てしまうのが普通なんだったか。でもそんなのが普通の世界だったら世間はもっと痴漢がたくさん摘発されるはず。ならそうなっていない今の世の中は正常だ。ビバ現代法律。(注 彼は混乱しています)
「なんかよくわからんけど深く考えるなよ? ツッコミが常識を見失ったらこの世は破滅だ」
「いくらなんでもツッコミの存在責任が重すぎるだろ」
「そう、それでいい。ツッコがボケに回った所でボケが飽和するだけだからな」
そう言うと、龍次は満足げに頷いた。
……いや何故そこでそういうリアクションが返ってくるのかが不明なんだが。なんだ今の教え子から期待通りの答えが返ってきた先生みたいな表情。ものすごくむかつく。
『そんなわけでして、えー、私からのお話は、えー、以上です』
あ、やっと終わった。三〇分くらい喋ってたなあの人。
終業式は初めてだが、基本的に学校全体の集会は校長(仮)の話さえ終わればあとは五分以内に終わる。ようやくこのくそ暑い環境から解放されそうだ。
『では最後に生徒会長の獅子尾君から連絡があるそうです。どうぞ』
そう言うと、校長(仮)は壇上の下手から現れた麻人先輩にマイクを渡し、上手から去っていく。
マイクを受け取った麻人先輩は、そのマイクを壇上で脚立の上に立つ会長に手渡した。
……………………うん?
「樹。会長って、いつからあそこにいた?」
「俺も今それ思った」
俺の眼がおかしくなければ校長(仮)の話が終わるまでは、壇上には校長(仮)しかいなかったはずなんだが……。
会長は一体どこから出現したんだ。全然気付かなかったんだけど。
そんな疑問にしきりに首を捻りつつも、とりあえず会長の方に意識を向ける。
会長の事だからまた洗脳チックで物騒な話だと思ったら、俺の予想とは違ってずいぶんとわかりやすい話だった。
『今の話を要約すると、気を抜くなということだ。以上、解散!』
ただ、俺達の三〇分を返せと言いたい。
***
精神的なダメージはさておき、会長の解散宣言を受けて教室に戻ってきた俺達。
終業式の日に教室でやる事といえば、もうこれしか存在しない。
そう成績表。
「おれのターン、ドロー! 烏丸朱音!」
黒板の前では吉兎先生が山札からカードを引くノリで通信簿を渡していた。なんだあのテンション。
ちなみに受け取った朱音のテンションは、びっくりするくらいいつも通りだった。
「時々思うけど、お前すごいな。俺だったらそんなポーカーフェイスは貫けない」
「ツッコミが生き甲斐だものね、あんた」
「生き甲斐言うな」
むしろ俺からすれば、何故みんなスルーできるのかわからない。
目の前で異常な事が起こっているんだぞ? 注意したり止めたりなんか言いたくなるだろ、普通。
「樹、それでも殴る蹴る投げるはやりすぎだと思うぜ」
「そう思うなら無駄にボケるのをやめろ」
「おいおいbrother、俺に生きるのをやめろってか!?」
「ほら見ろ朱音。生き甲斐って言葉を使われるのはこういう奴だよ」
「そうね。あんた見てると『嫌よ嫌よも好きのうち』って言葉の意味がよくわかるわ」
「どういう事だよ!?」
使いどころ絶対間違えてるだろ。確かに意味的には間違ってない…………ってなんでだよ。
俺、別にツッコミしたくないとは言ってないし。ツッコミがアイデンティティとか言われるのが嫌なだけであって、ツッコミが嫌いなわけじゃない。
いや積極的にしたくもないけど。
「えっと、樹君の場合はそういうのじゃなくて体質なんだと思いますよ」
「春菜。それフォローになってない」
ツッコミから逃れようがないって言われてるみたいで、むしろ切ないぞ。
「樹のツッコミ事情は置いといて、成績どうたった? 中学はどうだったか知らないが、高校レベルにはついていけない現実を思い知ったか?」
嫌に上から目線で雑魚っぽいセリフを吐きながら、龍次は朱音に訊く。
対して朱音は「見たきゃ見れば」と言わんばかりの無表情で成績表を龍次に手渡した。
……成績表って普通、見せるのを渋るものの最上位のものだと思うんだけど、俺だけ?
疑問に首を傾げながら成績表を受け取った龍次を見ると、さかんに目をこすっていた。
「あ、あれ、おかしいな。四と五しかないような気がするんですけど。俺、他の数字を認識できなくなったのか?」
「マジか」
さすが見た目は委員長…………いや外見は関係ないか。とにかくすごいな。
まぁ勉強の事は訊けば面倒くさがりながらも一応は教えてくれるし、体育祭で大活躍の運動神経だ。当然と言えば当然か。
「いや待て。実は十段階評価だったとか、学年の平均が四だったりするかもしれない。まだわからんぞ」
「どっちもないと思うけど」
前者はそもそも違うし、後者はウチの学年どんだけ頭いいんだよって話だし。確か桐野は県内でも平均くらいの学校だぞ。
「鮫島くーん。さっきから呼んでるんだけど、早くしないとこのリバースカードをオープンしちゃうよー?」
いつものように龍次にツッコミを入れていると、吉兎先生からそんな声が掛かった。
吉兎先生は教壇に何かを伏せていた。
「リバースカードって何ですか?」
「これこれ」
言いながら、伏せていたものを手に持ってひらひらと振る。
白い紙に黒字で「第一学年 成績表」と書いてあった。あと俺の名前も。
「すぐ行きます! つーか全然リバースされてねえ!」
「俺の特殊能力発動! 相手プレイヤーのリバースカードの内容を音読させる!」
「いらん事を言うな! 吉兎先生も改めて俺の成績表の中身見なくていいですから!!」
なんとか音読される前に成績表を奪取。俺は安堵のため息をついて、席に戻った。
さて、ばらされずには済んだものの、俺の成績は一体どうなんだろう。正直、自分としてはこの前の期末も良くもなく悪くもない感じだったから、成績もそんなもんなんじゃないかと思うけど。
二つ折りの成績表をぺらりと広げ、一通り読んでから閉じた。
……八割がた三だったな。平均近くとは思ってたけどここまでなんて……。
まぁ体育が五だったのは嬉しかった。英語は二だけど、相殺されて平均でいえば三は越えてるし。越えてるといってもすごいちょっとだけだけども。
「ハッ、凡人の証明みたいな成績だな」
「うるさい黙れ」
数秒しか開けていないはずだが、それでも龍次は目ざとく盗み見ていたらしい。後ろから嘲るような笑いが聞こえた。
「つーかお前、人の事言えるような成績じゃ…………………………おい。何故右手にライター、左手に成績表を持っている」
「それはな…………今この瞬間に魂を燃やす為だ!!」
ボッ
着火した!?
「何やってんだお前!? ていうか燃えてんの魂じゃなくて成績表だぞ言ってる意味がわからん!!」
「あっつ」
「『あっつ』じゃねえ!! つーか魂燃やすとか言っときながら何だその温度差!?」
教室内で火とかおまっ…………。
「はーい、そこまで。罠カード発動!」
「へ?」
状況に反して呑気な声が聞こえたと思った瞬間、目の前が何も見えなくなった。
***
〜烏丸朱音〜
幾分汚れてしまった眼鏡を外し、眼鏡拭きでレンズの汚れを落としてからかけ直した。
再びクリアになった視界で騒動の中心地を見てみると、比喩抜きに真っ白になった樹と龍次がまるで彫像のように立ち尽くしている。
…………何なのかしらね、この惨状。
「だ……大丈夫ですか!? 樹君、龍次君!」
一分ほど前に起こった事に唖然としていた猫乃さんが、我を取り戻したように二人に駆け寄る。
成績表のダメージもあったのか、今回の龍次の暴走は成績表を燃やすといういつもよりずいぶんと過激な内容だった。
けれど、たいした事なかったとはいえ、その火種は今完全に鎮火している。
吉兎先生の声と同時に天井から落ちてきた大量の白い粉のお陰で。たぶん、消火剤なんだと思うけれど。
それにしても火種を中心として直径五〇センチ程度の円付近にだけピンポイントで消火剤が降ってくるなんて、この学校の防火装置は一体どういう技術力で作られているのだろう。
おかげで放火魔の龍次と火元にいた樹を除けば、比較的近くにいた私ですら眼鏡がうっすら汚れた程度の被害しかない。
「…………ごふっ」
文字通り粉まみれの樹が、思い出したかのように息を吐いた。口元から粉が舞い飛ぶ。それからゆっくりと駆け寄ってきた猫乃さんの方に顔を向けた。
「は、春菜。俺、今どうなってるんだ?」
「えっと、だ、大理石像みたいです」
的確だけれどそういう事ではない気がする。
「そうか。石像か……」
突っ込み所だというのに、樹はそんな言葉を呟いただけだった。たぶん、現状に思考能力が追いついてない。
「と、とりあえずこれを」
「ああ、ありがとう。洗って返すよ」
猫乃さんからハンカチを受け取って顔を拭う樹。当然ハンカチ程度で拭い切れるわけもなかったけれど、とりあえず多少はマシになった。
「じゃ、消火もしたことだし、続きいくねー。おれのターン、ドロー!」
何事もなかったかのように、吉兎先生は龍次の次の成績表を引いた。名前を呼ばれたクラスメイトは目が覚めたかのように慌てた動きで席から立ち上がり、教壇へ向かっていく。
「あ、忘れてたけど成績は学校のパソコンに控えがあるから燃やしても無駄だよん。沢木くんはあとで職員室に取りにくるよーに。あと、はっちゃけちゃった罰としてそこの掃除はしっかりやってねー♪」
見た目小学生の担任の笑顔の言葉に、龍次は魂が抜けたように崩れ落ちた。一体どれほど悪い成績だったのか。
私はうなだれる龍次から、未だ思考能力があまり戻っていなさそうな樹に視線を戻した。
龍次はまぁ、自業自得として、彼は何故こうもとばっちりを受ける頻度が高いのだろう。そういう星の下に生まれたとしか言いようがないくらいの不幸さだ。
しかし、かと言って自分にできる事が何かあるわけでもない。私は心の中でご愁傷様とだけ呟いた。