〈一〉夏休み開始五時間経過

 

 

 

 

 

ピッピッピ

 

ピッピッピ

 

ピッピッピッピッピ

 

「そして追いオリーブオイル」

「何だその発想!?」

 

ガンッ

 

目が覚めると同時に掌を叩きつけたものを掴んだまま上半身を起こす。

手に持っているもので確認すると午前五時。いつもの起床時間だ。

世間一般では早すぎる分類らしく、龍次に「なに? お前牛乳配達のバイトでもしてんの?」と言われたこともあるが、小さい頃からの習慣だとむしろこの時間に起きないとすっきりしないくらいだ。

まぁ目覚めがよくなるのはこの『三・三・五拍子目覚まし』なるもののせいでもあるんだけど。毎回突っ込みどころのある事しか言わない。反射的に突っ込んでしまうので妙に目が冴える。

今日のも意味不明だった。

「なんだよ追いオリーブオイルって……」

追いの意味がわからん。つーかどこで売ってるんだこんな残念な目覚まし。

ちなみに買ってきたのはもっと残念な姉貴なので、あまり深く考えないようにしよう。深く考えると嫌な事を思い出して鳥肌が立ってしまう。

「うっ……んー…………」

姉貴の事を頭の隅に追いやっていると、俺の布団の隣りから寝起きの呻き声のようなものが聞こえてきた。

そこにいるのは一歳年下で俺が去年まで通っていた中学に通う門下生、長尾影虎。通称で虎。

虎はものすごく寝足りなさそうな険しい顔をしながら、緩慢な動きで腹に掛かっているタオルケットをどけた。

「……おはよ、イッキ兄」

「おはよう。ところで、何故虎がここにいるんだっけ?」

「…………夏休み、走るって……」

「あー」

目も開いてなければ脳も働いていなさそうだが、その単語で理由は思い出した。

夏休みが始まる少し前に、俺の早朝ランニングに夏休み期間限定で虎が参加したいと言い出したんだった。で、今日は初日だから寝坊しないように俺の部屋に泊まったというわけだ。

小学生の頃から付き合いのあるだけに、虎はよく俺んちに泊まる。門下生とはいえランニングを強要されてもいなければ習慣づいてもいないから、普段は俺一人早く起き出して走っている。

が、一緒に走ると約束したからには、今日はこいつを放置して行くわけにもいかない。

「おい虎、起きろ。もう着替えるぞ」

「うい……」

俺は虎の頬をぺちぺちと叩いてから、布団から立ち上がる。

虎の目がきちんと開いたのは俺が着替え終わってからだった。

 

 

***

 

 

「夏とはいえこの時間だと、そこまで暑くもないな」

と言いつつ、俺は持参したタオルで体の汗を拭う。気温はそれなりでもそこは夏。走り出せば結構な量の汗をかくのは仕方ない。

今いるのは家まで走って五分程度の小さな駐車場。水道やベンチはないが、ほとんど車が止まっていないので地面に座ってクールダウンするにはいいスペースだ。

まぁ別に家でやってもいいんだけど。どうせこの後、朝稽古するし。

ただ、俺は大丈夫でも、今日はそれとは別の問題もあるわけで。

「……さすがに何の反応もないと悲しいぞ?」

「だ……だって…………。イッキ兄、はや、すぎ……」

「そうか?」

大の字で地面に寝転がっている虎が、息も絶え絶えという感じでそれだけ言った。

家で休まなかった理由は見ての通り。虎がここで力尽きたからだ。

そこまで早かったんだろうか。わりと普段通りのつもりで走ったんだけど。

俺の返事に虎は上半身を起こして渋い顔で言う。

「だいたい、さ。ただでさえ、起きない時間に、慣れない距離を、ぎりぎりの速度でついてってるのに、なんでそのうえ、めちゃくちゃ、話しかけてくんの?」

「いやだって、二人して黙々と走ってたら何の為に二人で走ってるか分からんと思って」

二人で黙々と一時間近く走るのもどうだろう。俺はなんか嫌だぞ。

ん? でもそうして欲しくなかったんなら、何故二人で走ったんだろう。ペースメーカー?

「へい兄ちゃん。こんな所で朝からカツアゲ?」

「いや全然そんなことしてませんから」

後ろから誤解を招いていそうな言葉が聞こえた。もちろんそんな事実はないので、弁解するためにも振り返る。

そこにいたのは白帽子にジャージ、俺と同じくらいの身長の女だった。

もっとはっきり言うなら桐野高校二年生の天藤七星だった。

「よう。一週間ぶりくらいだったか?」

「んー、そうかもね。多い時は妙に連続で遭遇したりしてたけど」

帽子を脱いで、うちわがわりにパタパタとあおぎながら言った。

こいつと知り合ってもう一月は過ぎているが、時々今日みたいにランニングの途中に遭遇している。

コースが一緒でもないし、待ち合わせているわけでもないのでしょっちゅうとはいかないが、だいたい週に二、三回は会ってると思う。

ちなみにその時にやる事は色々だ。雑談する時もあるし、何故か競争になる時もある。

確か一月前、鉄下駄で走っている事を黙るのを条件に、こいつに「友達付き合い」を要求されたはずだが、あれはつまりこういう事なんだろうか。改めてこれが友達付き合いかと聞かれると微妙な気もするが。

「イッキ兄」

ジャージの裾を引っ張られ、そっちを見る。

ほふく前進で近付いてきた虎だった。何故にほふく前進。

「ナナさんと知り合いだったの?」

「ナナさん?」

「お、長尾っちじゃん。久しぶりー」

「長尾っち?」

俺が一人首を捻っている横で、七星は虎の方へ近寄って行った。

ちなみに虎はまだほふく前進体勢のままなので七星はしゃがんでいる。立てよ虎。さすがにもう立てるくらいには体力回復しただろ。

「なんだ。お前ら知り合い?」

「うん。何回か会ったことあるから」

「まぁメインはあたしじゃなくて燕なんだけどねー」

燕? 俺の知る限り、虎の知り合いで燕って名前は…………。

「ちょ、なに言ってんのナナさん! べべ、別に、あいつがメ、メインとかないし!!」

「燕とよく遊んでるって意味で言ったんだけどねー。好きとかラブとか恋してるとかいう深い意味はなかったんだけどねー」

「すす、好きとか、だっ、だからそんなんじゃないって!!」

「ああ、甲子燕(きね つばめ)だ」

いた。虎と同学年の女子だ。一年の頃同じクラスになって仲良くなったらしく、俺も何度か会って喋ったことがある。

俺も虎も名字でしか呼ばないから、下の名前だけ言われてもあんまりぴんと来なかったが、確かそんな名前だったような気がする。

ようやくそこまで思い至った俺の隣で、七星はにやにやしながら、虎は顔を真っ赤にしながら二人は話続ける。

「桐野行くんだってねー。長尾っちが誘ってくれてるし狙ってもいいかもだってー。脈あるかもねー」

「その話し方やめて!! めっちゃ嬉しそうに言うのもやめて!!」

「脈あり? え、ということは、虎って甲子のこと好きだったのか?」

「今更そこ!?」

「おっ、何が今更?」

「あ、いや、ちっ、ちがう! ナ、ナナさん今のは言葉のあやってやつで……」

「へー、じゃあ何がどう言葉のあやだったのかおねえさんに教えてもらえませんかねー?」

龍次が悪だくみをする時や会長がよくしているような、当事者からすれば嫌でしかないタイプの笑みを浮かべながら、七星がずいと虎に顔を近付ける。

一方、虎はランニングでかいたのとは別種類の汗をだらだらと流し、次の瞬間、ほふく前進の体勢からがばっと起き上がった。つーかむしろ跳ね起きた。

「ああっイッキ兄ごめん俺受験勉強しなきゃだから先帰るねいやーめちゃくちゃなごり惜しいけどこればっかり頑張らないとねじゃあナナさんもさよならばいばい!!」

まくしたてるようにそう言い残すと、あとは一度も振り返らず走り去って行く。

……つい数分前まで体力尽きてバテバテじゃなかったけ? あれならもっとペース上げれそうだけど。

「いやー、おもしろかった。やっぱり年下をからかうのは楽しいよねー」

「それ、年下相手に同意を求めることじゃないと思うぞ」

「樹は友達だからノーカン」

そう言って七星はニッと笑う。虎には悪いが、これだけ楽しそうな笑顔を向けられると、なんとなくそれならいいかと思ってしまう。

たぶん他人事だからだろうけど。

「ところで、甲子と七星は何の知り合いなんだ?」

「んー、燕? お母さんが燕のおばさんと友達でさ。年も近いし、小学校の頃からよく一緒に遊んでたんだ」

「となると、俺と虎と似た感じか」

俺も虎とは小学校ぐらいからの付き合いだ。過ごしてる時間でいえば、朱音と龍次を除けば最長かもしれない。

そんな風に考えていると、七星の視線に気付いた。何か意外な事実に気付いたような、そういう表情だ。

目が合うと、照れたようにはにかむ。

「どうした?」

「いやさ……。あたしと樹って、ひと月前まで赤の他人だったのに、何か妙な繋がりあるよね。ランニングじゃ今まではすれ違ってたし、付き合いの長い燕と長尾っちは友達だし」

「そう言われるとそうだな」

「これってさ、なんか運命っぽくない?」

上目づかいにこちらの表情を窺うように言う。

「そんなたいそうなもんじゃないだろ。せいぜい『世間は狭い』って所じゃないか?」

「む、ロマンがないなぁ。そこでキザなセリフのひとつも出ないんじゃ、女の子は振り向かないぞ?」

「お前、俺に何を求めてるんだよ」

「冗談だって」

不満そうにしていた表情を引っ込めて、七星は帽子をかぶり直した。

「ま、そういうのが入用な時はこの年上のおねえさんに相談しなさいな。樹、そういうの鈍そうだし、アドバイスぐらいはしてあげる」

「仮にあったとしても七星にはしない。なんせ虎のあのざま見たからな」

「おっとこれは失敗。じゃ、またね」

手を上げて、七星は駐車場から出て行く。俺も手を振り返してタオルを首にかけた。

さて、俺も帰るか。虎がどうなってるかも気になることだし。

しかし虎が甲子を好きねえ……。全然気付かなかった。

 

 

 

 

 

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