それは、人気のない奥まった場所にひっそりとあった。都会の喧騒から隔絶された、ビルとビルの隙間にある暗く狭い路地裏。

そんな場所で、鈴原小雪(すずはら こゆき)は一枚の真っ黒な扉の前に立っていた。光がないせいか、あまりに黒すぎるその扉はまるで暗闇そのもののようで、触れるのを躊躇ってしまうような雰囲気がある。

小雪は息を呑み、再度記憶と現在地が間違いない事を確認した。

噂では、ここにいるらしい。

これから死にゆく人の、文字通り最期の願いを叶えてくれるという人間が。

 

 

 

Last Wish――『葬儀屋』早崎士貴――

 

 

 

意を決し、扉をノックする。コンコンと乾いた音の後、数秒待つ。

返事はない。二、三度繰り返してみたが、やはり返事は返ってこなかった。

少し悪い気がするが、仕方ない。小雪はドアノブを回してみた。金属のこすれる音とともに、扉はあっさりと開かれた。

扉の向こうは真っ暗だった。ただ一つの灯りさえない、完全な闇。

不気味なほど暗い空間に、緊張で体がこわばった。本当にここで合っているのだろうか。もしかしたら自分は、とんでもない所に足を踏み入れてしまったのではないだろうか。

小雪はそんな不安に押し潰されそうになったが、まだここが探していた所と違うという確証もない。せっかくこんな所まで来て、ただ帰るのもしゃくだ。

再び覚悟を決め、誰かいないか呼び掛けようと息を吸った時、

「なにか、用ですか?」

「きゃあ!!」

突然背後から声を掛けられ、小雪は跳び上がった。即座に後ろを振り返る。

二〇過ぎくらいの黒スーツ姿の男が立っていた。身長は一般女性の平均身長である小雪より少し高い程度で、青白い肌と合わさって細い印象を与える体型。

髪はシミのない純白だったが、手入れを怠っているらしくボサボサ。邪魔なくらい長い前髪の下に眠たげな大きな目が見える。本当に眠いのか、目の下にクマまであった。

そんな彼が、小さな紙袋を抱えて小雪を見ていた。

「あの、どうしました?」

男が再び訊ねる。小雪はようやく我に返り、

「あ、えっと、お願いを叶えてくれる葬儀屋さんがいるって聞いたんですけどっ」

男に詰め寄り、早口で尋ねる。男は慌てた様子もなく、むしろのんびりとした口調で、

「ああ。それなら、わたしですよ」

かすかに笑みを浮かべて答えた。

 

 

***

 

 

建物の中に招かれ、椅子に座るように促された。

招かれたのはイスとテーブルと簡易キッチンがあるだけの寂しい小部屋だった。はじめ扉を開けた時は灯りの一つもなかったが、今は天井の蛍光灯に明るく照らされている。落ち着いた色を基調とした部屋で、狭くて窓もない割には不思議と圧迫感を感じない。

小雪は部屋を観察しながら、件の男をちらりと見た。簡易キッチンで飲み物をいれている。どうやら先程持っていた紙袋は食料品だったらしく、紙袋の中からコーヒーの豆やら紅茶のパックが取り出されていた。

男が手を止めて、小雪の方へと振り返った。

「飲みもの、なにかリクエストはありますか? わたしは、紅茶にしますけど」

「あ、じゃあ私もそれで」

「砂糖とミルクは、どうされますか?」

「えっと、砂糖だけ」

わかりましたという返事を言うと、男は紅茶のパックをポットに入れてお湯を注ぎ始めた。しばらく待ち、紅茶をカップに注ぐ。

そんな様子を見ていて小雪は思わず首を傾げてしまった。なんだか普通の人にしか見えない。確かに何処となく一般人とは違う雰囲気もするのだが、とてもあんな噂の流れる人物には見えないのだ。

あんな噂。それは、これから死にゆく人の最期の願いを叶えてくれる葬儀屋がいる、というもの。小雪が聞いた噂では、行方知れずとなった親友や恩師と再会させてくれたり、無くした宝物を見つけてくれたりしてくれたらしい。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

目の前に置かれた紅茶に視線を向ける。紅茶に詳しくないので何かはわからないが、いい香りがした。

男は小雪の向かいのイスに座ると、紅茶を一口含んだ。それからカップを脇へ置き、小雪に視線を向ける。

「とりあえず、自己紹介からはじめましょうか。わたしは、早崎士貴(はやさき しき)といいます。お好きなように、呼んでください」

ゆったりとした、何処か余裕のようなものが感じられる口調だった。

「鈴原小雪です」

「では鈴原さん。さきほどの話から察するに、あなたが今日ここに来たのは、だれか近日中に亡くなる方がいて、その人の最期の望みを叶えてほしいから、ですね?」

「…………はい」

単刀直入な物言いに、ほんの少し言葉に詰まった。

「その人は、あなたとどんな関係で?」

問われ、小雪は鞄から写真立てを取り出した。写っているのはソファーに座った初老の女性と、その女性に後ろから抱きつくようにしている今より少し幼い自分。数年前の写真だ。

「こちらが鈴原さんですから、この方ですか?」

早崎が初老の女性を指さす。

「母です。美雪(みゆき)といいます」

「お母さん、ですか」

早崎はそう呟くと、写真から小雪へと視線を移した。

眠たげな目で小雪を見つめたまま、

「鈴原さん。失礼を承知で、先に確認しておきたいことが、あるんですが」

そう前置きして、今までと変わらないトーンで告げる。

 

「この方、本当に亡くなられるんですよね?」

 

言われ、小雪は奥歯を噛み潰した。

言った。本当にあっさりと、何でもない事のように。この男は受け入れたくない事実を言い放った。

もちろん、そんな事に憤りを感じるのは間違っている。早崎は葬儀屋であり、彼にとって他人が死ぬというのはビジネスの始まりでしかない。仕事に対して冷静でいられるのは大切だ。だから、早崎の態度は至極当然の事だろう。

だけど。そんな理屈で、この感情を抑える事なんてできない。でも、その感情を早崎にぶつけるわけにもいかない。

結果、小雪は押し黙り、震える両手を膝の上で握り締める事しかできなかった。

「鈴原さん?」

静かな早崎の声で我に返った。

「……ええ。確かに母は、もう長くありません。病気が進行し過ぎて、医者の話だともって一ヵ月だそうです」

「その病気が治る、または、その期間以上に、生きのびる可能性は?」

「…………ありません。本当に、奇跡でも起こらない限り」

そうですかと呟いて、早崎は再び紅茶を含んだ。

話すのが、つらい。

目を逸らしたい現実を自ら認めているようで。

言葉の一つ一つが自分の胸に突き刺さるようで。

話さなければならない事は予想していた。なんせ彼は『死ぬ人間』の願いを叶えてくれる人なのだ。その人が死ぬという事は大前提、生き延びるなんてあっていいはずがない。

胸の中の感情を押し殺そうと、大きく深呼吸してみる。息を吐くと、少しだけ泣きそうな気分がマシになった。

「いくつか、条件があります」

小雪の気持ちの整理を見計らっていたようなタイミングで、早崎が口を開いた。

「ひとつ、亡くなった方の葬儀は、わたしのところでやらせていただくこと。ふたつ、近日中に、その方にわたしを会わせること。みっつ、わたしが葬儀屋であることは、その方に伏せること。以上みっつが、わたしが願いを聞く条件です」

「……………………え?」

早崎の言葉に耳を疑った。小雪の様子に、彼は首を傾げる。

「どうか、されましたか? わたし、何かおかしなことを、言いましたか?」

「いえ、そうじゃないんですけど…………それだけでいいんですか?」

「それだけ、とは?」

「ええと、何ていうか、お金とか」

「葬儀代がありますから。それに、願いの件は、ちょっとしたおまけみたいなものですよ。サービスってやつです」

つらつらと告げる早崎に、小雪はなんだか脱力してしまった。

てっきりお金(それも結構な額)を請求されたりするのかと思っていたが、そういうわけではないらしい。むしろ願いを叶えるという大変そうな行為を『おまけ』とまで言い切ってしまった。

「願いも、すべて叶えられるわけではないですし。叶えるのは、あくまでわたしができる範囲だけですから」

だからといって、その出来る範囲の事を『おまけ』程度で片付けること自体、相当変わっている。

何なのだろう。小雪は早崎を見つめながら思った。

小雪は、葬儀屋という職業は、必要以上に遺族と関わらないようにする職業だと考えている。死というものを扱う以上、あまりに遺族と親密すぎると仕事にならないからだ。それこそ何十何百と繰り返す仕事の一つ一つに情が移っているようでは、絶対にやっていけなくなる。だからそれを避けるために必要最低限しか遺族と関わらない。そういう職業だと考えていた。

しかし早崎はどうだ。彼は関わらないどころか、死者の最期の願いを叶えるという自ら情を移す様な真似を進んでしている。

叶えられる叶えられないは問題ではない。叶えようと行動してくれること自体が、死にゆく人間にとって涙が出るほど嬉しい行為なのだ。

そんな事をして、仕事がやりにくくなったりしないのだろうか。それとも、そんな感情でさえも『おまけ』程度で全く問題ないのだろうか。

のほほんと紅茶を飲んでいる早崎を見て、小雪は改めて思う。

本当に、この男は何なのだろう。

 

 

***

 

 

「早崎さん、質問してもいいですか?」

小雪は隣を歩く早崎を見て訊ねた。

二人は今、小雪の母である美雪が入院している病院へと向かっている。早崎を美雪と会わせる為だ。

早崎の裏事務所(葬儀屋は葬儀屋でまた別のところに事務所があるらしい)から病院までたいした距離がなかった為、二人は病院へと徒歩で向かっている。

「なんですか?」

相変わらず眠たげな瞳をこちらに向けてくる。

「どうしてこんな事しようと思ったんですか?」

「こんな事って、願いの件ですか?」

小雪は首を縦に振った。

「だって、早崎さんはサービスだって言ってましたけど、願い事を聞くなんていうのはサービスの範疇越えてますよ」

小雪が噂で聞いたのは、その人によほどの思い入れがなければやろうと思えないような行為ばかりだった。

だから知りたい。どうしてそんな事をやろうと思ったのか。

「理由はすごく、つまらなくて、ぜんぜん立派なことでは、ないんですが」

早崎はそう前置きして、

「自己満足です」

短く告げた。

「え? ええと、え?」

「ぜんぶ、自己満足なんですよ。わたしがやっていることは」

早崎は前に視線を向けたまま続ける。

「わたしはべつに、わたしがやっていることが、善行だなんて思っていません。感謝されたこともあれば、怨まれたこともあります。感謝の言葉が欲しくてやっているわけではないので、かまいませんけど」

ただ、と言うと、早崎は邪魔っけな髪の下の目をほんの少し細めた。

「少しくらい、逝きやすくしてあげたいと思ったんです」

「いきやすく?」

「ええ」

そう言うと、早崎は再び小雪の方を向いた。感情の読みにくい表情のまま、小雪を見つめる。

「鈴原さん。『悔い』というものを、どういうふうに考えていますか?」

訊ねられ、少し考えてみる。

「思い残した事、悔しい思い出、残したくないもの、みたいな感じです」

「そうですね。わたしも、そういうものだと、思っています」

早崎が頷く。

「では、鈴原さん。悔いが残った経験は、何度ありますか?」

「……えっと、いっぱいです」

少し恥ずかしくなって、声のトーンを落として呟いた。

悔いなんて本当にいくらでもある。大きな事も小さな事も、それこそ数え切れないほど。それは小雪に責任があった時もあれば、運悪くそうなった時もあった。

小雪の様子に早崎は小さく笑みを作って、

「わたしも同じです。悔いのない人生を歩んできた人なんて、いませんよ。人は生きているかぎり、過去を背負っているんですから。どんな些細なことであれ、『ああすればよかった』と思うことは、誰にだってあるんです。それなりに満足できたことでも、『ああすればもっとよかったかもしれない』と、思うことで。もし、悔いなんてかけらもないという人がいるのなら、それは一秒ごとに記憶をなくす人です。過去を振り返らない、振り返れないから、悔いがあるのかすらわからない。そんな人でない限り、人は何かに悔いつづけます」

早崎は調子を変えずに続ける。

「だから、わたしはこのサービスをはじめました。どうせ死んでしまうのなら、せめて一つくらい、『死ぬ前にこれがしたかった』という、思い残しをなくしてから、逝かせてあげたい。あの世、っていうのが本当にあるのかは、わかりませんが、一つでもこの世での心残りをなくして、ほんの少しでも逝きやすくなればいいと、思ったんです」

それは、どれほどの想いがあって出来る事なのだろうと、小雪は思う。

早崎は世間話でもするように言ったが、決して簡単に出来る事ではない。まったくのあかの他人、それもこれから関係を築く事さえもできない人の為に無償で願いをきいてあげるなど、小雪には絶対にできない。

彼はそんな事を、一体どれほど続けてきたのか。

感謝の言葉さえ必要とせず、自己満足と割り切って、誰かの最期の願いを叶える行為を。

早崎にそう考えさせる出来事が過去にあったのだろうと思うが、そんな事は今日初めて会った小雪が踏み込んでいい事ではない。

しかしそれはきっと、早崎にとってとても大きな出来事だったのだと思う。

「優しいですね。早崎さんは」

早崎の話で小雪が感じたのは、そんな言葉だった。

彼がしている行為が早崎自身の誓いなのか償いなのか願いなのか、それとも本当にただやりたいだけなのか。この話だけでは、小雪は判断できなかった。

けれど、たった一つでも心残りをなくしてあげようとする行為は、どんな行為よりも優しい事だと思う。

「優しくなんか、ないですよ。それで、本当にあの世に逝きやすくなるかなんて、わかりませんし。怒られることだって、あるんですから」

早崎はそう答えたが、小雪は小さく笑い返した。

すぐさま言い返してきたのが照れ隠しのようで、なんだか少しかわいかった。

 

 

***

 

 

病院に到着し、エレベーターで病室のある階まで上がる。

いつもの事なのだが、病室に近づくにつれて気持ちが暗くなっていく。美雪が長くないと知ってからは、特に。

日常的に生活している分には明るい人に分類される小雪だが、病院ではとてもそんなふうには振る舞えなかった。

病院には負のイメージがある。健康な人はまず訪れる事のない場所であり、怪我や病気など、なってはならない状態の人達で溢れ返っている。そして、その人達のいくらかは、死という最期を遂げる。

どんなに明るく見せても、どんなに清潔にしようと、そのイメージを拭い去る事はできない。

まして、そんな場所に美雪がいると、それも死に近い状態でいると考えると、どうしても気分が落ちてしまう。

「大丈夫ですか?」

「……大丈夫です。ちょっと気分が落ちただけですから」

早崎にまで心配されるなんて、おそらくよほど酷い顔だったのだろう。そんな顔を、美雪に見せるわけにはいかない。

一度深呼吸をして、小雪は気持ちを整えた。

「それより早崎さんは、自分の仕事の心配でもしててください」

「それも、そうですね」

そう答えると、早崎はそれ以上追及してこなかった。

無言のまま、二人は病室に着いた。『鈴原美雪』と書かれたネームプレートのある個室。ドアは閉まっている。

小雪はもう一度深呼吸をし、それからゆっくりとした動作でドアを叩く。コンコンという無機質な音の後に、はーいという声が聞こえた。

「お母さん、入るよ」

小雪は告げると、返事を待たずにドアを開けた。

白く塗られた部屋。大きな窓からは日差しが差し込み、部屋を明るく照らしている。部屋の中にあるのは一つのベッド。

「やあ小雪。昨日ぶり。今日は遅かったね」

そのベッドの上に、小雪の母である美雪がいた。

生まれてすぐに父を亡くした小雪の、たった一人の肉親がいた。

「うん。昨日ぶり。ちょっとね」

笑顔を作って、挨拶を返す。

そう、ここで暗い顔をしていても駄目だ。美雪は自分の死が近い事は知っているし、もうそれを受け入れているとも言っていた。

死ぬ当事者が受け入れているのに、そうでない人間が受け入れないのは間違っていると思う。

だからこそ、笑顔を作らなくてはいけない。受け入れていると、美雪に思ってもらう為に。彼女がいなくなった後でも、一人になっても、自分は大丈夫だと思ってもらう為に。

「ん? その人、誰? もしや彼氏?」

「違うよ。えーと、この人は大学の先輩。この病院に知り合いが入院してるらしくって、お見舞いする側同士で一緒に来たの」

「早崎です。どうも、はじめまして」

早崎が手を差し出す。

葬儀屋とは明かさないのが条件だったので、事前に決めていた嘘を告げた。

「こちらこそ。小雪の母です。娘がいつもお世話に…………なってますよねえ」

「それなりに」

美雪に手を握り返され、早崎は笑みを作って言った。

「お母さん。なんでお世話になってる事が前提なの?」

「えー? だって小雪ったら、しっかりしてるようでどこか抜けてるじゃない。なんだかんだで迷惑かけてるんじゃないの?」

「失礼な。そんなに迷惑なんてかけてないですよね?」

「どうでしょう」

小雪の方を見ないで早崎が小声で呟く。

「ほらー」

「ちょ、早崎さん!」

小雪が詰め寄るが、返って来たのは無言だった。

「っと、せっかく小雪の知り合いが来てくれたっていうのに、何も出さないっていうのもねえ。早崎くん、何か飲む?」

「すいません、気をつかわせてしまって」

「いいのいいの。で、何にする?」

冷蔵庫を指差して訊ねられ、早崎は顎に手を当てた。ちらりと、一瞬だけ小雪の方に視線を向ける。

小雪はそれが何を意味するか察し、

「私、何か買ってくる。冷蔵庫の中、あんまり入ってないでしょ?」

そう言い残して、返事も聞かずに病室を出た。向かう先は同じ階の談話室の自販機ではなく、一階ロビーにある売店。あそこまで行けば、五分や一〇分程度の時間なら掛かるはずだ。

おそらくその間に、早崎は美雪の願いについて聞くつもりなのだろう。美雪の、最期の願いを叶える為に。

美雪の願いとはどのようなものだろう。エレベーターを待つ間、少し考えてみる。

小雪自身、叶えてほしい願いはたくさんある。学校の事、友人の事、将来の事。

しかしそれは、これからすぐに死ぬなんていう未来がまだないから叶えてほしい願いだった。美雪は違う。

これから死ぬ人間と死ぬ予定のない人間とでは、叶えてほしい願いなんて絶対に変わってくる。

これから死ぬのであれば学校の成績なんてどうでもいいし、新しい事にチャレンジしてみようという気も小雪にはない。時間が残されていないのなら、将来の事にも諦めが尽く。

そう考えると、死ぬ事を前提にしてまで叶えてほしい願い事なんて、あまり思いつかなかった。

ただし、例え自分の全てを賭けても、叶わないのは承知で、叶えてほしい願いはあった。

治療の専門家である医者が無理だと言った事を早崎ができるはずもないけれど。それ故に叶わない願いだとはわかっているけれど。

それでも。奇跡でも偶然でも何でも構わない。

美雪の病気を治してほしい。

それこそ、死んでも叶えてほしい、小雪の願いだった。

 

 

***

 

 

「おー、小雪。おかえりー」

「ただいま。って、このやり取りは何か変じゃない? 家じゃないよ、ここ」

「そう? でもやっぱり小雪はこの病室に帰って来たのであって、特に問題はないと思うけど」

ペットボトルのお茶を二本ほど買い、小雪は病室へと戻ってきた。早崎はベッドの脇の丸椅子に、入って来た小雪に背を向ける形で座っている。

「はい、お茶。早崎さんも同じでよかったですか?」

「ええ」

振り返って、早崎は小雪に向って笑みを作った。その笑みにはどういう意味が含まれているのかはわからない。

願いは早崎が叶えられる事だったのか、違うのか。

その願いをすでに叶えてしまったのか、違うのか。

早崎の表情からは読めない。

「はい、お母さん」

わからないからと言って美雪の前で聞く訳にもいかない。小雪はお茶をコップに注ぎ、美雪に渡した。

早崎の表情からは読めない為、今度は美雪の顔を見てみる。

入院前より目に見えて痩せた顔。いつも笑顔だが、どこか覇気がなくなっている顔。死期が近いという事が目に見えてわかる顔だった。

生まれてからこれまで、誰よりも近い場所で見ていた小雪にははっきりとわかる。わかってしまう。

その顔の弱々しさに。その体の痛々しさに。

「ん、どうしたの小雪?」

「……何でもないよ」

表情から気付かれたのか、そう訊ねてくる美雪に、叫び出したい気持ちを抑えて小雪は笑みを作る。

こんな弱った母に、心配かけさせるわけにはいかないのだ。

「早崎さんもどうぞ」

できるだけ我慢している顔を見せたくなくて、小雪は美雪から顔を背けるように早崎にコップを差し出した。

礼を言って受け取る早崎にコップを渡し、冷蔵庫にペットボトルを仕舞う。

「鈴原さん」

そこで早崎から呼ばれた。冷蔵庫が低い位置にある為、身をかがめていた小雪は立ち上がって振り向いた。

そして、

 

「ぶっ」

 

思わず噴き出した。何故なら、振り向くと同時に目に入ったのは、早崎が両手と顔をいっぱいに使って普段の姿からは想像すらできないような愉快な顔をしていたからだ。

「ちょっ、早崎さん! 何して、るんですか!?」

「いや、おもしろいかと、思いまして」

思わず叫んだ小雪に、両手を離して無表情で早崎は言う。先程までとのギャップに、頬がひくひくと引きつった。

「鈴原さん」

「な、何ですか」

すまし顔の早崎に、予想外の展開に引きつる頬をどうにか抑えながら答える。

「どうぞ、遠慮なく笑ってください」

「ぶふっ」

噴き出したのは美雪だった。ベッドの上で声を上げて笑い始める。

「くっくっ…………早崎くん、その顔ひどっ……」

「お、お母さん! 失礼だから!!」

「いやだって遠慮しなくていいって……ぷっ」

再度笑い始める美雪を見て、なんだか小雪もおかしくなってきた。

美雪はよく笑う人だ。楽しくて。面白くて。おかしくて。愉快で。そんな理由ですぐに笑う人だ。

それは入院してからも変わらなかった。余命を告げられた当初こそ少しだけ暗かったが、しばらく経って「死ぬなんて人間だから当たり前のこと」と思い始めてからは、これまでのようによく笑っていた。

だが、こんなに大きな声で笑ったのは、病院に来てから、命の残り時間を告げられてからは初めてではないだろうか。

それを考えていると、小雪の口も自然と笑みが浮かんでいた。

世界でたった一人の肉親。もうすぐいなくなってしまう、唯一の家族。

けれどこの瞬間、美雪はいつも通りだった。病に身を侵され、余命いくばもないようには思えないほどに、普段通りに笑っていた。

笑顔こそ、美雪の本質。

「ふっ、ふふ……」

思わず声が漏れる。美雪の笑い声に重なるように、小雪の笑い声が病室に響く。

「あはははっ」

美雪は決して、無理して笑っているわけではない。楽しいと思った事に対して、素直に、自然に、感じたままに笑っている。

その自然な姿は、美雪が生きているという事を証明しているかのようだった。

例えもう一ヵ月も生きていられない体だとしても、関係ない。病気になろうが入院しようが、美雪は美雪。

確かに、あと少ししか美雪は生きる事が出来ない。けれどこの瞬間、美雪は生きている。いつものように、普段通り、彼女らしく笑って。そう思うと、小雪は自然に笑っていた。なんだか嬉しい気分だった。

同時に気付いた。いつの間にか、笑い声が小雪の分一つしかないという事を。

そして、

 

驚いたように小雪を見つめる美雪の目尻から、一粒の雫が流れ落ちたのを。

 

「……え?」

思わず笑い声が止まり、声が漏れた。

ついさっきまで笑っていた美雪が静かに泣いていた。それは泣くと表現するより涙を流すという行為だったように見えた。理由はわからない。

けれど美雪はその涙を拭おうともせず、顔を伏せた。苦笑でもしているかのようにわずかに笑みを浮かべ、下を向いた額に手を当てて、静かに涙を流していた。

まるで予想外のイタズラされた後のような美雪の表情に、小雪の頭には疑問符しか浮かばない。

「ど、どうしたのお母さん? どこか調子悪いの?」

「……ううん。そういうわけじゃないの。ちょっと、ね」

苦しそうにも悲しそうにも見えない。涙を零す理由がわからない。美雪の様子に、小雪はただ戸惑うばかりだった。

美雪が目尻を拭うと、それ以上瞳から涙が落ちる事は無かった。静かに笑みを作る。

「早崎君。ありがとう、本当に。きみ、すごいよ」

そして、早崎に向かって深々と頭を下げた。対して早崎はほんの少しだけ笑んだ。

彼はそのまま美雪に背を向けると、病室の出入り口へと歩いていく。

ドアを開けて、振り返った。

「では、わたしはこれで。鈴原美雪さん。どうか、限りある生を、楽しんでください」

言い残し、そして彼は病室を去って行った。

 

 

***

 

 

「早崎さん、何があったんですか? お母さんに何かしたんですか?」

病院の外。

早崎に追いつくなり、小雪はそう問いかけた。

「ええ。美雪さんの願いを、叶えようとして、うまく叶えられました」

「叶えられたって……」

淡々と告げられた言葉が理解できず、小雪は首をかしげた。

何かしていただろうか。少なくとも小雪には、何かしていたようには見えなかった。

ならば、小雪がいなかったあの時にあったとしか考えられない。

「美雪さんの願い、聞きたいですか?」

静かな問い。わずかに悩む。

「……聞きたい、です」

しかし、小雪ははっきりと言った。返答に早崎が少しだけ笑む。

「美雪さんの願いはですね。あなたの笑顔が見たい、というものです」

「…………え?」

自然と、そんな声が口から漏れていた。

「え、笑顔って、私ちゃんと、いつも――」

美雪に心配させない為に、笑うようにしていたのに。

「ええ。たしかに鈴原さんは、いつも笑っていました。あなたが楽しいわけではなく、嬉しいわけでもなく、美雪さんのために、笑っていました」

早崎はこちらを見ないまま続ける。

「ですが、それが美雪さんには、許せなかったそうです。これからいなくなる人間のために、鈴原さんが笑う必要は、どこにもない。悲しみをこらえてまで、笑顔をつくる意味なんてない。鈴原さんには、感じたことを感じたままに、自分のために笑ってほしいと、言っていました」

美雪の為ではない、自分の為の笑顔。小雪が楽しいと思ったから笑う。小雪が嬉しいと思ったから笑う。

そんな事を、美雪は望んでいた。この世の『悔い』として、母は思っていた。

しかし、それはつまり――

「じゃあ、私が今までしてきた事って――」

無意味だったのではないか。そう言おうとして、早崎が首を振る。

「いいえ。それだけは、ありません。美雪さんは、あなたが自分を心配させまいと、笑顔をつくっていることについては、その気持ちだけで十分だと、言っていましたから。ただ、鈴原さんのための笑顔が、足りなかっただけなんです」

諭すように言う彼の口調は、どこまでも穏やかだった。そんな風に言ってもらうだけで、美雪が本当にそう言っていた事が想像できてしまう、そんな口調。

「だから、鈴原さん。あなたはもっと、美雪さんに、素直に接してあげてください。思ったことを思ったまま、感じたことを感じたまま、あなたのために、生きてください。それこそが、あなたのお母さんの願いです」

穏やかな早崎の口調に、思わず小雪は顔を伏せた。

気持ちを落ち着けるために、長く息を吐く。

「…………お人よしって言うか、ホントに馬鹿ですね、うちのお母さん」

本当にそう思う。

死ぬのは自分なのに、子供の心配なんかして。

けれど、それが美雪なのだと、小雪は心の中で納得していた。そんな母親だからこそ、小雪は美雪が大好きなのだから。

小雪の呟きに何も言わず、うっすらと微笑みだけを作る早崎に向かって、小雪は向き直った。

「早崎さん。私、出来るだけ頑張ってみます。心の底から笑えるかはわからないけど、お母さんに心配させないくらいには、きっと」

「だから、そうじゃないんです。あなたが楽しいと、思わないと」

「あ、そうでしたね」

言葉と同時に、自然と笑みが浮かんでいた。

心が軽くなったと小雪は感じていた。

だって、わかったのだから。美雪が何を願い、そして自分が何をすべきかを。

自分の感情に素直になる。美雪の為でなく、小雪自身の為に笑う。

死に行く母の前で、それはとても困難な事かもしれない。けれど小雪の心はやってみせると決めていた。もうすぐお別れの、母の最期の願いを叶える為に。

改めて隣りを歩く早崎を見る。彼はひたすら穏やかな表情で、前だけを見て歩いていた。

小雪一人では決して見つける事のできなかった、母の最期の願い。

この葬儀屋はそれを見つけてくれた。小雪が為すべき事を、示してくれた。

その事に感謝し、小雪は静かに、しかし深々と早崎に頭を下げた。

 

 

***

 

 

嫌になるくらい晴れた日だった。それでも、この場所に降り注ぐ太陽の光は極端に少なく、じめじめとした空気が漂っている。

目の前にある真っ黒な扉を叩いた。初めて訪れた一週間前とは違い、扉の奥からどうぞ、という小さな返事が返ってくる。

扉を開くと、その向こう側でイスに座り、彼がお茶を啜っていた。

黒いスーツ、青白い肌、細い体型、ボサボサの白髪、眠たげな目。

葬儀屋は静かに、来訪者に視線を向けていた。

「そろそろ、来られる頃だと、思っていました」

カップを置き、早崎士貴は以前と変わらぬ穏やかな調子で言う。

「では、鈴原小雪さん。今日のご用件は、なんですか?」

問われ、小雪は口を開く。

それは、自分でも驚くほど冷たい口調だった。

 

「昨日、母が亡くなりました」

 

 

 

***

 

 

「どうぞ」

目の前に出された紅茶に、小雪は視線だけを落とした。

ありがとうございます、と言おうとして、小さすぎたその言葉は口の中で消える。

言いなおす気力もなかった。早崎もそれを見抜いているようで、何も言わずテーブルの向いに座る。

沈黙。

いつもは快活でお喋りが好きな小雪だったが、今は何かを言える気分ではない。そんなわけがない。

早崎が笑わせてくれた、あの時とは違うのだから。

小雪は、美雪の死を報告に来た。大切な人はもういないのだ。

「それでは、鈴原さん。願いを叶える条件でしたので、葬儀は、わたしのところでやらせていただきます。鈴原さんは、葬儀の経験は、ありますか?」

「……いえ」

「そうですか。なら、まずは葬儀の進行の説明から――」

「早崎さん」

淡々と続ける早崎の言葉を遮って、小雪は彼の名前を呼んだ。気付いたら、呼んでいた。

彼は特に何も感じた様子はなく、落ち着いた調子で、

「なんでしょうか?」

静かに言葉を返す。

「早崎さんは、お母さんの最期の願い、覚えてますか?」

俯く小雪の口から出たのは、そんな質問。

「ええ」

「私に、自分の思うままに行動して、自分の為に笑っていてほしい、です」

「ええ」

「あれから、出来る限り自分の感情に素直になれるようにしました」

できるだけ美雪の顔色を窺わないようにした。

思った事は全て伝えた。

そして美雪に、本当はいなくなってほしくない、死なないで、と無理な願いも告げた。

「そうですか」

「でも、笑う事だけは出来ませんでした。どうしても、そう心が思えなかったから」

考えれば当たり前の事だった。

目の前で、大切な人が死にかけている。日に日にやつれ、起き上がる事さえも困難になっていく。

そんな状態で、一体何に対して笑えばいいのだろう。

美雪の最期を看取った時もそうだった。

ベッドに横たわる美雪の手を、泣きじゃくりながら握ることしかできなかった。

死なないで。行かないで。これからも側にいて。

そんな、死に行く人間にとって不可能でしかない言葉しか、口にする事ができなかった。

たった一度、母が望む笑顔を見せることも。

「お母さんは笑っててほしいって言ったけど、そんなの、無理ですよ」

もう、作り笑いすらできない。それほどまでに、小雪は我慢できなかった。

けれど、話す事だってやめられない。

「本当に、大好きだった。もっともっと、一緒にいたかった。もっともっと、何かしてあげたかった」

美雪がいなければ、小雪はこの世界に生まれてこなかった。

美雪がいなければ、小雪はこの世界で生きてこれなかった。

自分を誰よりも愛してくれた、小雪にとって誰よりも大事で何よりも大切な人。

しかし、その大切な人とはもう二度と会えない。

「笑えって……。そんなの、無理に決まってるじゃ……ないですか。一番、大切な……人、なんですよ?」

涙がこぼれた。嗚咽が止まらない。そして、言葉も止まらなかった。

顔が、言葉が、仕草が、思い出が。次々と溢れてくる。

いなくなった人が、どれほど大切だったか教えるように。

二度と会えない事が、どれほど辛いか思い知らせるように。

「ねえ、早崎さん。私は、どうすれば……いいんですか?」

ボロボロの顔で、小雪は早崎を見た。

どうして言葉を止められなかったのか、小雪はようやくわかった。

答えを訊く為だ。自分では答えを見つけられないその答えを、早崎に教えてほしいからだ。

きっと彼なら知っている。美雪の願いを教えてくれた、この人なら。だから小雪は話し続けた。

早崎は目を細めて小雪を見ていた。眠たげな、感情の読めない彼の瞳。

その目が、ほんの少しだけ和らいだ。相変わらず前髪が邪魔でも、涙で視界が歪んでいても、それだけはわかった。

「泣けば、いいです」

早崎はゆっくりと、静かに告げる。

「泣いて泣いて、涙が枯れるまで、泣いて。そのあと、笑えばいいんです。自分の死を、悲しんでほしくない人はいません。でも、大切な人が、いつまでも悲しみつづけてほしいだなんて、思う人もいません。悲しむだけ悲しんでくれたら、幸せになってほしいと、思います」

一度区切って続ける。

「それに、美雪さんの願いは、鈴原さんが自分の感情に、素直に生きてほしい、というものだったんです。なら、あなたが、悲しいという気持ちを、我慢しなければいけない理由なんて、ありません」

だから、と彼は言った。

「今は、好きなだけ泣くといいですよ」

その言葉で、限界がきた。こらえていた感情が涙とともに一気に溢れる。

早崎の言葉が、本当に美雪が望んでいる事なのかはわからなかったけれど、

 

それは確かに、小雪が望んでいた答えだった。

 

小雪は両手で顔を覆い、小さく呻いた。

気付けば隣に立っていた早崎が、まるで幼子に接するかのように小雪の頭を撫でる。

女性のように細く、しかし暖かく優しい手。

小雪はそのまま、その感情を抑えることなく、子供のように泣いた。

 

 

***

 

 

「ご迷惑かけしました。すいません、なんか本気で泣いちゃって」

裏事務所の扉の外。小雪と早崎は扉の前に立っていた。

小雪は腫れた目尻を気にしながら早崎に詫びる。

「こういう職業をしている以上、よくあることです」

対して早崎は、いつのもの穏やかな口調でそう言った。

しばらく泣いた後、早崎から葬儀の進行の説明を聞き、続いて費用や親族との連絡など、雑事について話した。

一度泣いてしまったせいだろうか。葬儀の話をしている最中、美雪の事を思い出しても不思議と涙は溢れてこなかった。

悲しくないわけではない。しかし、我慢したわけでもない。ただ、そういう事実として受け止められるようになっていた。

自分でも、何かつかえのようなものが取れている事がなんとなくわかった。

早崎の言葉のおかげかもしれない。

好きなだけ泣くといい。彼の教えてくれた答えは、小雪の欲しかったものだったのだから。

「早崎さん」

だから、小雪は彼の方へと向き直る。

「ありがとうございました。お母さんの願いを叶えてくれて」

そして、小雪自身をも救ってくれて。

小雪の感謝に静かに首を振り、

「いえ、叶えたのは、あなたです。わたしは、見つけただけですから」

早崎は一拍置いて続ける。

「たぶんこれから、鈴原さんはまた、美雪さんのことを思って、悲しくなることがあると、思います。辛くなることがあると、思います。そんな時は、気が済むまで泣いてください。そして最後に、笑ってください。それが、あなたのお母さんの、最期の願いです」

「……はい」

しっかりと頷く小雪に、早崎は満足そうに目を細める。

そして静かに、しかし明瞭な声でこう言った。

「では、鈴原小雪さん。どうか、限りある生を、楽しんでください」

そう言って見送る早崎に頭を下げ、小雪は自分の家へと歩き出す。

少しでも逝きやすく。たったそれだけの願いを込めて、彼は死人の願いを叶え続ける。

穿った見方をすれば、彼が行っているのはこの世の未練を断ち切るようなものかもしれない。

しかし、もし彼がそんな死神だったとしても、小雪は彼に心から感謝している。

だって、これほど優しい死神なんて、他にいないのだから。

路地から出た小雪は振り返り、裏事務所がある暗闇を眺めた。

優しい『葬儀屋(saver)』は、その場所で、これからも死に行く者の願いを待ち続けていくだろう。

 

 

 

 

 

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