019 子供のような恋

 

 

 

 

 

「純粋という概念は人間にとって、失ってはいけない必要なものだと思うかい?」

走り去って行ったもっちんの方に視線をやりながら、曽根原が言った。

「僕たちは年を重ねるにつれて純粋でなくなっていくと言われる。大人は狡猾で、ずる賢く、嘘吐きで、信用ならないと子供達に言われる。しかし、それは本当に間違ったことなのか? 純粋でない大人になることはあってはならないことなのか? 僕はね、純粋である事は、人間にとってまったくもって正しくない在り方だと思っているよ」

曽根原はこちらには目もくれず、もっちんの方へ視線を向けたまま続ける。

「何故ならね。純粋で純真な人間は、もはや人間でないからだよ。人間を人間とする一番の理由は何だと思う? おそらく人によって定義は異なるし、僕もこの考えを他人に押し付けるつもりはないけれど、僕の答えはこうだ。不純だから。曖昧で、割り切れず、ねじ曲がっていて、中途半端。そんな風に不純だからこそ、人間は人間なんだ」

曽根原は続ける。

「人間は疑う生き物だ。人間が文明を持ちえたのは自分の内外問わず知覚するもの全てに疑問を持ってきたからなんだ。世界に、現状に、疑問を抱くこと。疑問を抱いてしまうこと。好奇心や探究心、野次馬根性と言い換えてもいい。備わったその機能よって人間は世界を解き明かしてきた。そしてね。この疑問を持つという意味で、特に人間を人間たらしめる事が一つあるだ。わかるかい?」

曽根原は続ける。

「自分達より先に解き明かされた疑問に対する答えに納得せず、その定義ともいえる答えにすら疑問を持つ事だよ。有名なので言えば地動説とかね。そう、僕たちは疑問の解答にも疑問を持つだ。納得しないだ。信用しないだ。それこそ、僕と君のような捻くれ者が存在するくらい。それじゃあ何故こんな猜疑心の塊である僕たち人間に――――あえてこう表現しよう、純粋な子供時代なんてものが存在するのか。その答えは簡単さ。人間は時を経るごとに、世界を生きるほどに、そして何度も疑うたびに、より何かに対して疑うことを覚えるから。身につけるから。学ぶから。知識が、学習が、経験が、人生が、新たな疑問を呼び起こすから。つまりね、純粋で純真な子どもは不純で無粋な大人へと成長することが正常で、正解で、正当なんだ」

曽根原は続ける。

「さぁ、前置きが長くなってしまったのでまとめに入ろう。人間は疑問を抱くことを必然とした生き物である。疑問は新たな疑問を呼び、それは長く生きるほど培われていく。その過程で純粋な子供は不純な大人へと成り代わる。さて。僕が何を言いたいか、賢しい君ならもうわかるだろう?」

曽根原が続ける。

 

「純粋な人間は人間のなりそこないさ。疑うことを知らない彼女たちは、人間としてどうしようもなく未熟で半端で――――人間として不純だ」

 

いつの間にか曽根原は僕の方を見ていた。試すような、値踏みするような笑みを浮かべて。

僕は言葉を吐きだす為に、ほんの少し息を吸った。

「君が何を思ってそんな事を言ったかなんか知らないけれど」

思っていたより素っ気ない響きで、僕の口から言葉が漏れる。

「仮に君の言う通り、純粋な人間は人間のなりそこないで、人間として不純だとしたら」

 

「それは生物の中で最も不純で無粋な捻くれ者にとって、目を背けたいくらい正しい在り方だ」

 

曽根原の表情は変わらない。僕は続ける。

「自分が失った純粋さは、人間には全く必要がないもの。それを持ち続けているのは愚かで無様だ。実際、そう見えることもある。だからこそ純粋な人間はだんだん『人間らしく』なっていく。そういう意味でも、いくつになっても純粋な人間というのは、本当に異端で――――人間じゃないだろうな」

僕は続ける。

「でも不純で無粋な人間ほど思うだ。どうしようもない位、純粋という在り方を失った事の空しさを。信じない人間ほど信じる人間に憧れるだ。それが人間としてではなく、世界に対して誠実な在り方だから。だから――――『もし』僕が言うような捻くれ者が純粋な人間たちと出会うような事があれば」

 

「その純粋さを奪うものを絶対に許さない。彼女が純粋であり続ける限り、何があっても彼は彼女の味方であり続けるだろうさ」

 

「それで、その『彼』は『彼女』に何も望まないのかい?」

「さあね。仮定の話だからそんな事までは知らない」

僕がそう返すと、曽根原は両手を組んでそこに顎を乗せた。

「自分からは何も望まず、ただその人間の味方であり続ける。捻くれ者のくせに、その彼はずいぶんと彼女に心酔しているようだね。それは信仰っていうじゃないかい?」

「そんな大層なものじゃないだろう」

「ならばそれは恋というやつだ。ただ一緒にいればそれでいいなんていう、子供のような恋だよ」

そう言うと、彼女はいつものように、とても愉しそうに笑みを作った。

 

 

 

 

 

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