〈二〉桐野高校大体育祭〜第一競技 一〇〇メートル走〜
『さあ始まりました、『白と黒のデスマッチ』こと桐野高校体育祭。えー、今回、実況解説審判得点その他もろもろ全部任されてしまった僕は、桐野高校生徒会副会長の犬飼です』
先生達の観覧席のあるテントの隣の放送席で、『全部』と書かれた名札を付けた麻人先輩がどこか諦めたような表情でそんな事を言っていた。
全部って……。会長、あなた鬼ですか。
『さて、そんな悲しい僕の現状はともかく、第一競技は全学年全クラスによる一〇〇メートル走です。出場選手は入場門に集まってください』
そんな放送が入ったので、それぞれのクラスの出場選手が観覧席から立ち上がった。
各クラスから男女一名ずつが出場し、順位で得点が決まるこの競技。ウチのクラスの出場者は、龍次と朱音だ。
この二人が選ばれた理由は、龍次が目立つ競技がいいと主張しまくった事と、朱音は団体競技より個人競技の方が力を発揮できるから。あとは単純に、二人の足が速いからだ。
「よっしゃ! それじゃあ皆の衆、俺が先手必勝ってやつを見せてやるぜ!」
「任せたぞ沢木!」
「こけんなよ!」
「ボケとか誰も望んでないからな!」
「むしろなんでお前が選ばれたんだ?」
「お前らもっと真剣に俺を応援しろよ!!」
応援なのか忠告なのか非難してるのかよくわからない男子の声に、珍しく龍次が突っ込んだ。
ちなみに俺が何も言わなかったのは、その忠告がかなりもっともだったから。まぁ締めるところは締める奴だから大丈夫だろう。たぶん。
「朱音さん、頑張ってくださいね」
「いつもどおりに走ればいいから」
「大丈夫よ。龍次じゃあるまいし」
一方、春菜達女子勢から励ましの言葉を貰っている朱音は、相変わらずのクールさでメガネをケースにしまっていた。
いつもの三つ編みは走るのには邪魔らしく、今日はシニヨンにして上げている。
しかし……いつも通り、ね。
「樹。何か言いたい事でもあるならはっきり言いなさい。思いっきり顔に出てるんだけど」
「いや、お前って緊張するのかなぁと」
「するわよ。必要な時は」
必要な時って、緊張って勝手になってしまうものじゃなかったっけ?
そんな疑問を脳内で解消しようとしているうちに、朱音はさっさと入場門へ行ってしまった。
ううむ、消化不良だ。こういう時は誰かに聞くもんだな。
「なぁ春菜。緊張って、オンオフが可能なものだっけ?」
「え? あ、え…………た、たぶん出来ないとは思いますけど」
「だよなぁ」
という事は、朱音が特殊だということだろう。基本的に感情の起伏が乏しい奴だし。
「フッ、常に衆目に晒されているという事を自覚している俺の場合は、緊張なんてものとは無縁さっ」
「お前の場合はただの緊張感欠如だ。そしてカッコつけてないでさっさと入場門へ行って来い」
俺の言葉に、龍次は肩をすくめて首を振った。無駄に気取ったその態度が微妙にむかつく。
「まったく、樹はツッコミばっかりで親友に対する扱いがなっちゃいないな。励ましの一言もないのか」
「まぁ、それもそうか。じゃあ、ボケはいらんからとりあえず一位を取ってこいよ」
一応念押ししておいた。いやだって、こいつ本当にやりかねないし。
「おう。任せとけ」
俺の(わりと適当な)言葉に龍次は手を挙げて応え、
「龍次君。頑張ってくださいね」
「Yes, sir! 頑張ってくるぜ春菜ちゃん! 今の応援で樹と対比して二〇倍ぐらいやる気上がった!!」
春菜の言葉に何か気合いのようなものを発しているテンションで応えた。バトル漫画なら龍次を中心に砂埃がまき散らされるようなテンションと言えばわかるだろうか。
実際はそんな事起こらないが、ただやる気があるという事だけ伝わってくる感じ。
「お、おおげさですよ」
「いやー、女の子の言葉ってすごいな。まさに魔法の言葉」
「やる気が上がったのはわかったから、さっさと行って来いって。点呼取ってるぞ」
「うおやべえ!」
ようやく現状を理解して入場門へ走っていく龍次。出場選手の集団に、無駄にきれいな跳び込み前転をかましてから何事もなかったかのように合流した。
…………テンション上がりすぎだな。その前転に一体何の意味があったんだ。
「えっと…………。りゅ、龍次君、元気が有り余ってるみたいですね」
「春菜。無理にフォローする必要はないからな」
むしろフォローするとつけ上がるからしない方がいいかもしれないくらいだし。
集まった選手達に怪訝な顔をされながら(朱音は他人の振りをしていた)合流した龍次を引き連れ、いつの間にか放送席からそっちへ移動していた麻人先輩を先頭に、入場門から第一競技出場者がコースへと向かう。
ざっと見た感じ、ウチのクラス以外で知った顔はタカと亀田……そんなところか。
『これより第一競技一〇〇メートル走を開始します。皆さん、自分の組の仲間の応援をしっかりしましょう。それではまずは一年女子、位置についてください』
競技開始前のそんな前置きの後、A組からF組までの六人の女子がスタートラインでクラウチングスタートの構えを取る。
麻人先輩はスタートラインの脇で右手のピストルを頭上に向けた。
走る順は、まず一年女子、一年男子、二年女子……という感じ。そんなわけで、朱音の出番は初っ端だ。
まぁ緊張してる様子もなかったし、たぶん大丈夫だろう。
『よーい』
騒がしい場内が一瞬静かになり、
パァンッ
スタート。
結果は、ほぼスタートと同時に決まっていた。
「ナイススタートダッシュ!」
「まけっ、まけぇぇえええ!!」
一位を独走状態で突っ切るのは――黒いハチマキをした、D組の朱音だ。
朱音は元々の身体能力が高い上に瞬発力が凄まじいので、短距離走で負ける事はほとんどない。
例えるなら矢のような速度で、一度も誰とも並走することなく、朱音はゴールテープを切った。一位だ。
「朱音、ナイス!」
「いいぞ烏丸!」
「冷めたその目が素敵だー!」
「踏んでくれー!!」
「今なんか特殊性癖の奴がいなかったか!?」
反射的に声のした方を振り返ったが、人が多すぎてわからなかった。いや、わかりたくもないけど。
「すごいですね、朱音さん」
「ん、ああ。そうだな……」
「? どうしました?」
「いや、春菜は気付かなかったんだなぁと」
たぶん春菜は朱音が一位を取った事に純粋に驚いていて、さっきの妙な発言は聞こえてなかったんだろう。俺のツッコミが完全にスルーされた形はとても空しいが。
「あ、龍次君が出てきましたよ」
春菜の声に、俺は意識をスタートラインへと戻した。
クラス順に並んでいるため、C組の亀田、D組の龍次、E組のタカはちょうど順番に並んでいる。
で、龍次とタカは、
「ようやく出会えたな、沢木。俺はお前と違う組になったその瞬間から、いつかこんな時が来るって思ってたぞ」
「そうだな、タカ。しかし神も残酷な事をするよ。俺と出会わなければ、一分後にお前が敗北に打ちひしがれる事もなかったというものを!!」
「そんな運命は、俺の力で変えてやる!!」
「フハハハハ!! 運命などではない。確定している真実なのだよ!!」
相変わらず意味不明なテンションで、アクション付きで挑発し合っていた。
タカはただの馬鹿だからアレだが、龍次も乗りすぎだろう。なんか強いけど最後にはやられる敵キャラみたいな発言してるし。
つーかあいつら、三〇メートル近く離れているこの場所まで聞こえるって、一体どんだけでかい声で話しているんだ。
ちなみに龍次の隣にいる亀田は、緊張なんて一切していない様子であくびをしていた。あいつ神経太いな。
『はいはい。挑発はその辺にして、そろそろ位置についてください』
「俺のロケットスタートを見せてやる!」
「フッ、タカよ。俺のソニックブームに巻き込まれるなよ?」
「…………音速の世界?」
あ、隣の亀田が突っ込んだ。
『よーい』
さすがにこの時は二人も黙り、全員がクラウチングスタートの構えから腰を上げ、前傾姿勢になる。そして、
バァンッ
横一線でスタート……いや、わずかに龍次のスタートがよかったので、体半分抜きんでている。足の速さはみんなそれなりに拮抗しているらしく、差が広がらない。
このままいけば一位は龍次だが、
「負、け、るかぁぁぁあああ!!」
タカが叫んだかと思うと、スピードが一気に上がった。しかし龍次も負けていない。抜かれる事だけは防ぎ、並んで走り続ける。
ちなみに並んだ辺りから龍次とタカは闘志剥き出しで睨みあっているが、そんなことしている余裕があるならちゃんと前向いて走れ。
そんな事をしているうちに残り五メートル。ゴール目前――
「え?」
思わずそんな声が漏れた。
「なっ……」
「あ!!」
あと一歩という差でゴールテープを切られた龍次とタカの声が聞こえる。
一位は亀田だった。あいつ、残りの五メートルで二歩分の差を埋めやがったぞ。龍次とタカだって足は早い方なのに……なんて脚力だ。
バスケがあれだけ上手かったから悪くはないと思ってたけど、まさかここまで運動神経が良いとは思わなかった。注意しておこう。
ちなみにだが、二位争いは僅差で龍次が制した。危ない危ない。
「何てことしくれたんだのんびりバスケ部員! 俺達の聖戦を!!」
「そうだぞこの場面で伏兵とか求めてねえよ! つーかお前誰だよ!!」
「いや〜、おれだって負けたくなかったからな〜。あと〜、おれは亀田っていうぞ〜」
難癖つけ出した敗者二名に詰め寄られ、亀田は手で制しながら間延びした声で返答。
……一応、その馬鹿達はわりと本気で怒っているわけだが、なかなか肝が据わってるな、あいつ。いや、空気が読めないだけかもしれないけど。
「お前名前に亀が入ってんだったらゆっくり走れよなんだ今のラストスパート! 俺の末脚見せられなかったじゃん!!」
「タカの末脚なんかどうでもいいんだよ! それより完璧に勝利して悔しがるお前達に、『お前達の不幸は、俺の敵だった事だ』ってカッコよく決めるという俺の壮大な計画を台無しにされた方が重要だ!!」
「だけどな〜。勝たなかったら会長の下僕に認定されるらしいからな〜」
亀田、わざわざそんな奴らの話を聞かなくてもいいぞ。基本的に無駄話だから。
あとお前らが睨み合って走ってなければ抜かれなかったはずなので、負けたのは自業自得だ。
「何それ俺聞いてねえぞ!? じゃあ俺下僕確定!?」
「かもな〜。だからおれ〜、がんばって走ったぞ〜」
「何言ってんだよタカ。お前もう、蛍先輩の下僕だろ☆」
「畜生なんてこっ――」
ベキッバキッ
「だばっ!?」
「アポッ」
天を仰いでオーバーアクションで嘆くタカの側頭部と、あからさまに小馬鹿にした顔でタカを指差していた龍次の首が、突然地面に薙ぎ倒された。二人の間に立っていた亀田は、背が低かったことが幸いして無傷。
「邪魔。さっさとどきなさい」
地面に倒れ伏す二人にそんなぞんざいな言葉を投げかけたのは、一位という刺繍が施された旗を持った朱音。どうやら旗の棒の部分(金属製)で龍次とタカを叩きのめしたらしい。容赦ないな。
「え、え〜と〜、やりすぎ?」
「大丈夫よ。こいつら打たれ強いから」
のんびりとはしているが常識はちゃんとある亀田がかなり控えめな感じで質問すると、もはや倒れた二名には視線すらやらないで朱音はそんな風に答えた。
あまりの出来事に静まり返る校庭。数秒経って、
『え、えー、一悶着ありましたが、次の走者の二年生女子。位置についてください』
麻人先輩の声で、ようやく皆が動き始めた。少しぎこちない動きだが、スタート位置についたり準備運動をしたり。
そのぎこちなさを作った張本人である朱音はというと、旗を元の位置に戻してその前に行儀よく体育座りしていた。後ろに座る亀田が微妙に距離を開けて座っている辺りが何とも言い難い。
ちなみに叩きのめされた龍次とタカは放置の方向で、ゴールの脇で転がっている。
……走ってる人は、ゴールが近づくほどあいつらがよく見えるのか。かなり嫌だな。
「あの、樹君」
「何だ?」
横目でちらりと朱音の方を見て、隣の春菜が遠慮がちに言う。
「朱音さんって……その、ああいう事よくやるんですか?」
「あー……」
………………。
………………。
「………………こ、興奮してるとわりとよく手が出るな」
本当の事を言うのは気が引けたので、そんな風に誤魔化しておいた。
朱音の事、そろそろばれそうだなぁ。